「霧の波紋」(22)                 白川零次著

第六章 退職慰労金

    (2)

 

 高品部長が部屋を出たあと、俵副社長は窓の外をぼんやり眺め回した。若い
サラリーマン達が日本橋の横町を、飲み屋目指して徘徊
している。
 ふと俵は三十年以上も昔のこと、富山県の鉱山街で鉱夫達と飲み歩いた頃を
思い出していた。

 あの頃一本のダイナマイトすら無駄にしないよう、一人の事故者も出さないよう、
鉱山採掘と開発に真剣に取り組んでいた。そして
仕事が終わると、仲間達と自前の
焼酎で語り合ったものだ。

 今その自分が社長の椅子を目前にして、会長のご気嫌をとるために一晩百万円
単位の役人接待に平然と流れようとしている。

 これでよいのか、これでよいのだ。どちらの声も俵の耳には自分自身の苦笑で
掻き消されてしまった。

 俵は大場会長の経営に若い頃は極めて批判的な考えを抱いていた。特に大場が
取締役総務部長になった年の公害紛争は、技術屋として
看過出来ないほどの怒りを
覚えた。

 当時、大場取締役総務部長は連日山川ビルに押しかけて来る被害者団体と弁護団に
音を上げて、一日も早く丸く抑めようという気持
ちだけが働いていた。
 先々の叙勲の事まで考えていたかどうかは定かではないが、何とか世間にいたずらな
波紋を投げまいと、大場は必死になって事態の
早期決着を急ごうとした。
 “鉱毒病の原因は我が社にある。今後一切その当否について反論しない。これまでと、
これから発生する鉱毒病患者の治療費を永久に
補償する。同時に損害を与えた施設や
土地の賠償を約束する”

 この屈辱的な誓約書に、大場総務部長は公衆の面前で、当時の山川メタル社長の
手に印鑑を握らせて、ロボットを操るが如く判子を
押させたのだ。その惨めな調印で
もって山川メタルの公害紛争は一
応の幕引きとなった。
 そしてその結果が二十年以上たった今でも、経営的には毎年二十億円近い賠償金の
支払い、という致命的負債を負うことになり、ま
た社会的に山川メタルは公害企業
という汚名を着せられることにな
った。さらには、果てしなく続く構造不況の
三十年間で、一万人だ
った大企業が二千人にまで減少し、さらになお毎年数百人
単位のリ
ストラが断行され続けている。
 大場会長の経営上の功罪を問う時、功に該当するものを挙げることは難しい。
 その彼が何故、最年少取締役から常務・副社長と玉座目指してかけ上がれたか、
いまでも社内外で謎めいた語り草になっている。

 ライバルを落とし入れた、山川コンツェルンの長老達に色目を使うのがうまかった、
経営者合同連盟で派手な演説、派手なパフォー
マンスをやって注目された、色々な
噂が色々な形で飛び交った。

 だがとにかく社長在任十年、会長在任六年、通計十六年という長期政権の間に、
大場均の存在と名前は山川メタル社内で神格化され
てしまったのである。
 俵副社長には大場のカリスマ性を直接目の当たりにした経験がある。それ以来
俵は絶対的大場信者となってしまった。

 十年ちょっと前の年の瀬も近い頃、俵は山形工場長だったが、従業員の作業ミスで
工場の一部に火災を起こした。殆ど小火(ぼや)程度で終
わったが、当時本社の
技術担当常務に電話で事の次第を報告したと
ころ、すぐ上京しろと言う。タイム
テーブルを調べると、あと四十
五分後の午後三時に羽田行最終便があった。彼は
背広などの身の周
りのものをバッグに詰め、自分は作業衣姿のまま上京した。
 午後五時過ぎ、わけも解らぬまま作業衣姿で、担当常務につれられて恐る恐る
大場社長室に入った俵に、いきなり大場の雷が落ちた。

「この苦しい時期にお前は一体何を管理しとるのか!」
「申し訳ありません。しかし……」
 “しかし実情はかくかくしかじか”と弁解しょうとした俵を常務がこっそり足を
踏みつけて抑えた。

「俺の若い頃は……」に始まった大場の説教は延々と三十分以上続いた。その間、
俵は“はあ”“いえ”“申し訳ありません”の三つ
の言葉だけに封じ込められた。
三十分以上喋りまくった大場は、

「おや、もうこんな時間か、俵君、俺の言いたいのはそれだけだ。あとは場所を
かえて、常務にゆっくり事故の報告をし給え。山形か
らわざわざご苦労さん。」
 と言ってさっさと自分は帰ってしまった。そのあと担当常務が一席設けて慰めて
くれたが、翌日山形への帰りの便の中で俵はがっく
り来てしまった。
 “もうこれで終りかな”彼は取締役適齢期をとっくに過ぎていた。同期の一人は
常務にまで昇格している。その上今度の火災事故、そ
して社長の雷だ。
 取締役を諦めかけていた年明けの二月初め、本社総務部長から意外な電話が入った。
「俵工場長、我が社の株はどれくらいお持ちでしょうか。」
「え?」
「至急最低でも五千株揃えておかねばね。どうもおめでとうございます。」
 そしてそれから一週間後、これもまた運命の日だった。
今度は背広姿で恐る恐る大場社長室に入った俵は、そこに原田康雄の姿を見た。
その年、新取締役昇格者はこの二人だったのだ。原
田は俵より一歳若いが、入社年次
からは三年後輩になる。原田は同
期の中ではトップの取締役昇格だった。

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。