「霧の波紋」(23)                 白川零次著

第六章 退職慰労金

    (3)

 

「お宅の会長さん眼の具合がよろしくないようですね。」
 永田町の高級料亭“長谷甚”の十六畳間、資源エネルギー庁鉱業課長が、あまり
気乗りしない風に俵副社長に話しかけた。山川メタ
ル側が俵と高品総務部長、
エネ庁側はキャリア組の鉱業課長と課長
補佐である。ノンキャリアの課長補佐の
方が恐らく五、六歳課長よ
りも年上だろう。それでも俵の五十八歳、高品の
五十五歳に比べる
とワンジェネレーション違うような若い役人達との組み合わせだ。
「身体の方は至極健康なのですが、やはり齢なのでしょうか。暗くなると少し
見づらいようです。」

 俵が当り障りのない返事をすると、今度は課長補佐が切り込んで来た。
「例の六年前の一件は片づきましたか。」
「六年前?」

 俵が問い返そうとするのを高品総務部長がすかさず遮(さえぎ)って、
「例のカルテル問題とアメリカのダンピング訴訟ですね。」
「そうそう、同じ製品が同じ時期に、日本国内の需要家からは不法カルテルで
価格をつり上げてると訴えられ、片やアメリカの輸出で
は大安売りだとダンピング
提訴されましたよね。あの時は役所とし
ても対応に大変苦労をしました。」
「いやあ、課長補佐にはその節は大変ご配慮頂いたようで……」
 課長補佐の話に今度は課長が乗ってきた。
「カルテルとダンピングが同時だとすると、国内の需要家は随分高いものを
買わされている勘定になるわけですね。業界のかたがたは
それが役所の行政指導に
沿ったものだと言われるかも知れません
が。」
「日本の物価は世界一高いはずだ。」
 課長補佐の方が冗談めかして課長の話をフォローした。
「いやあお二人にそこをつつかれると痛いですね。公取(こうとり)からはえら
お灸を据えられまして、社内的には関係者をすべて処分しまし
た。」
 高品が頭かきかき弁解した。
 実際そのカルテルとダンピングに関わった製品の営業担当部門は、上は部長から
下は女子職員にいたるまで、何やかやと理屈をつけて
首を切った。山川メタル
としては世間体に対する謝罪の表明を、う
まい具合にリストラに結びつけたので
ある。その当時幸運にも大阪
支店長だった大井戸営業本部長は部外者として処分を
免れた。

 非鉄メーカーの製品はどれをとっても、その価格形成システムは、大なり小なり、
闇カルテルと輸出ダンピングの上に成り立っている
ものである。課長補佐が冗談
まじりに言った“日本の物価は世界一
高い”は冗談ではない、的を射た指摘なのだ。
「会長の大場は先日引退を決意しました。御存知の通り会長社長通計十六年の
キャリアですから、その間けっこう毀誉褒貶(きよほうへん)もあった
とおもい
ますが、やはり長年仕えた私共部下としては、何がしかの
形で晩節を飾って
やりたいと思っております。お二人のご高配を是
非お願いしたいと思います。」
 俵副社長が姿勢を正して今夜の本題に触れた。高品も深々と頭を下げる。
「なるほどお気持ちは解ります。でも会長はまだお若い。晩節などと申し上げる
のは失礼なのではありませんか。」

 “今夜の本題”を鉱業課長も心得ていた。俵の“陳情”に対する柔らかな拒否
反応を彼は予め準備していたようである。

 六年前の違法カルテルの摘発とアメリカのダンピング提訴をあえて話題として、
引っ張り出したのも、鉱業課長の筋書き通りだった。
叙勲については、本人はもち論、
本人が社長・会長在任中の会社も
また身ぎれいであらねばならない。大場が会長、
社長時代の違法行
為なり社会的悪評をやんわりと話に出すことによって、叙勲申請は
難しいと鉱業課長は暗示したわけだ。
 口数は少ないがこの課長さん仲々酒は強そうだ、俵は思い切って話題をかえるかの
ように、

「処で課長、私共地金屋は無粋で通っておりますが、この近所というか赤坂にちょっと
気のきいたところがありますので、そちらでお
くつろぎ頂けませんか」
 俵が課長の盃に酒を注ぎながら言うと、高品も上目遣いに愛想笑いをしながら
うながした。

「どうするかね課長補佐……」
「それは課長次第で……」
 結局赤坂の高級クラブ“シャングリア”で二次会ということになった。クラブでは
俵も高品も勿論役人連中も、一切野暮な話抜きの
無礼講で終始した。
 帰りの車の中で高品が俵に話かけた。
「副社長、もっとストレートに勲章のお願いをすべきではなかったでしょうかね。」
「いやあ君、阿吽(あうん)の呼吸だよ。あの課長、十分察したはずだ。」
 一方別の方向に走り出した車の中で、資源エネ庁の課長補佐が課長に話しかけた。
「課長、もっとストレートに叙勲申請を断るべきではなかったでしょうか」
「いやあ君、阿吽の呼吸だよ。あれでも申請書を持ち込んで来るようではあの副社長も
だめだな。」


(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。