「霧の波紋」(24)                 白川零次著

第七章 逆転判決

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 三月二十日、明日は春分の日、そしてその翌日の三月二十二日に会長社長の
引退記者会見が急遽取り決められた。大場会長自身の鶴
の一声である。大場が
何故引退発表の日取りを早めたかは定かでは
ない。恐らく大場自身の腹が決まった
としか言い様がないだろう。
誰もその点を大場に確認する勇気はないのだ。
 社長室で臨時常務会が開催された。引退会見そのものがメインテーマではない。
どのような会見にするかは大場一人が決めればよい
ことである。余人が与(あず)
かることではない。

 臨時常務会開催の動議を提案したのは俵副社長である。彼には期する処があった。
月岡社長と原田専務に提示した新組閣人事の俵私
案についてまだ何の進展もない。
原田専務が貝のように口をつぐん
でいるからだ。
 俵としては別の形で大場会長に決定的インパクトを与えようと決断した。叙勲と
退職慰労金、大場会長の二大執念に対して十分な根
回しが出来たと俵は判断した
のである。

 叙勲については一週間前、資源エネ庁の鉱業課長をアルコール漬けにした。
「夕べ鉱業課長と一杯やりました。大変上機嫌で帰りました。」
 とだけ、俵は大場会長と翌朝廊下で立ち話をした。これで十分自分の言わんと
するところを会長は察したはずだ、と俵は思った。す
べて高品部長のアドバイスに
従ったのである。

 もう一つの大きな懸案である退職慰労金問題、これも高品部長と練りに練り上げた。
今日ここで大場会長に我が試案として披露する。
俵は確固たる自信をもって臨時
常務会開催の動議を出したのだ。

「俵副社長より動議がありました。新取締役体制を決定する前に、六月の株主総会の
議題について確認したいことがあるということで
す。皆さん如何でしょうか。」
 定例常務会と同じメンバー同じ配列、雰囲気的にも特に変わったことはない。
ただ明後日、会長社長の引退記者会見が決定している
という事が、寧ろ出席メンバーを
いつもよりリラックスさせている
ようだ。
 進行役の月岡社長の発声で口火をきったが、だれも一言も言わないので、俵副社長は
気勢を削がれた思いで大場会長の表情を窺った。

「いいじゃないですか、俵副社長の話を聞きましょう。」
 大場会長が屈託なげに言ったので、俵はとりあえずほっとした。
「それはどうもありがとうございます。」
 工場育ちの赤黒い顔を大きくつき出してお辞儀しながら、俵副社長は高品部長に
目くばせした。

「今からお配りする資料は私共社員一同の気持ちとして、大先達である会長及び
社長にぜひお汲み取り頂きたいという一心で、確認の
ため私がまとめた案でございます。
ご検討頂ければ幸いです。では
高品君呼んでみてくれ給え。」
「畏まりました。第何号議案になるかはまだ解かりませんが、不明な所は○印として
おります。それでは読ませて頂きます。


 “株主総会 議題案
    第○号議案
      退任取締役に対する退職慰労金並びに在任中死亡せる取締役に対する
    弔慰金の支給について


 本総会終了時点で退任予定の取締役大場均、月岡景樹、○○……の○氏(この最後の
○は退任取締役の人数が入るわけですが)に対
し退職慰労金を支払うものとし、その
金額、支払時期及び支払方法
については内規に従い取締役会に一任するものとする。
また平成十
年二月三日死亡せる取締役故山中友人氏に対し、弔慰金を支払うものとし、
その具体的内容及び方法については前記同様取締役会に一
任するものとする”

 以上のとおりでございます。」
 高品部長が読み上げている間、俵は大場会長の顔色をずっと窺っていた。読み始め
から読み終わるまで確かに表情の変化があった。
極めて微妙な変化だ。最初真剣で
あった眼差しが徐々にゆるんで来
た。俵は大場会長が満足したと確信した。
「皆さん。毎年総会では同じような文言が議案として出されておりますが、今年は
特に重要だと思いまして、念のため常務会メンバー
ではっきり確認しておきたかった
のです。たとえ一部の総会屋や業
界新聞が不埒(ふらち)な発言をするとしても、
社員株主を前席一杯に坐らせ
て、これ等の発言を阻止させます。その点高品総務部長に
総会屋対
策には万全を期すよう、話してありますのでご安心下さい。そうだな。高品君」
「はい。私が責任をもって円滑に進めます。」
 書記役にもかかわらず高品総務部長が立ち上がって言うのを、大場会長が柔らかく制し
ながら、

「俵副社長も高品部長も相当気負っているようだが……いやお気持ちは大変ありがたい。
ただね俵副社長、私や社長が退職慰労金を受
け取るのを一体誰が反対してるのかな。」
「おっしゃる通りでございます。我が社員の中にそのような不心得者が居るはずが
ありません。ただ一部のゆすりたかり専門の総会屋
や業界紙がどんな難癖をつけるかも
知れません。去年の大同製煉の
阿部会長のように、あとから新聞で叩かれることも考え
られます。
だから株主総会で正規にはっきりと認識させておくべきだと考えたのです。」

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。