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俵の赤黒い顔が青黒く変わって行った。かなり大きなテーブルだが、俵の吐き出す
唾が真向かいの原田専務にまで届きそうな気配である。
「はっはっは」
大場会長が本当に愉快そうに大声で笑い出した。
そして微笑みを絶やさず、しみじみとした調子で話し始めた。
「副社長、遠慮することはない。私や社長、いや私だけの事だが数億円の退職金を
受け取ることについては、ゆすりたかりの総会屋もさることながら、一番拒否反応を
示しているのはうちの社員であることぐらい、私は百も承知のことです。会長社長
在任十六年、取締役総務部長から数えると二十六年何一つ良いことはなかったからね。
それどころかこの二十数年間で八千人の同士達をリストラしてしまった。大企業から
中小企業というよりも、ここ四年間連続赤字という不況会社ににしてしまいました。
役員の退職慰労金は退職金というよりも報酬の一部と見るべきだろう。少なくとも
法律的にはそう解釈されています。だとすれば会社をここまで不採算企業に落とし
入れてしまった張本人である私に、そういう報酬を受け取る資格はないわけだ。
少くとも社員達はそう考えているだろう。え、副社長、君はそう思わないかね。」
「はい、いやいや、いいえ、そんな……。」
俵副社長の声は掠(かす)れて聞き取れない。
大場会長も喋り疲れたのか、言葉のつぎ穂を失い社長室に気まずい沈黙が流れた。
「あのう。僣越ですが、一言宜しいでしょうか。」
いつもの低音で滑らかな原田専務の声が静かに響いた。
「どうぞ、どうぞ。」
月岡社長のとってつけたような反応に応えて、原田が発言した。
「今、退職慰労金のことについて決めるのは早過ぎるのじゃないでしょうか。」
いつもよりゆっくり丁寧な口調で原田は発言するつもりだった。しかし話し始めると
いつものやや早口に変って行った。
「会長がおっしゃる通り、周りの反応、特に社員達の声にも耳を傾けねばなりません。
ただ、今の時点ではっきり言えることは山中取締役名古屋支店長が先月亡くなった
ということです。山中さんは本社営業部長から名古屋支店長と十年以上にわたって
我が社の営業を支えてこられました。ですから山中さんに弔慰金をお渡しすることに
ついて我が社の社員はじめ誰も異論を挟むものはいないと思います。今決めることは
その点だけだと思いますが如何でしょうか。」
大井戸営業本部長が発案したウルトラCの片鱗を原田はちらっと見せた。だがまだ
本当の手の内、即ち“退職金慰労金なども弔意金に含める”はあえて伏せた。伝家の
宝刀は一回だけ抜けば良い、いやそうしなければ効果が半減してしまう。
ところが大場会長は原田の秘めたる宝刀を一遍で察知したらしい。数秒間の沈黙が
流れたが大場の鶴の一声で幕が降りた。
「原田専務のいうように退職慰労金のことを今決めるのは時期尚早でしょう。だが
確かに亡くなった山中君の弔慰金は、これについては私からもぜひ皆さんにお願い
したい。彼は本当に良くやって来れた。まさに企業戦士の戦死ともいうべき壮絶な
最期だった。どうか遺族達のことも慮(おもんばか)って内規通り満額出して頂きたい。
改めてお願いします。」
再び社長室に沈黙が流れた。会長の発言を素直に、会長の真情と解釈しての感動の
沈黙が大半を占めていた。
ただ一人だけ、してやられたという臍(ほぞ)を噛む思いで言葉を発し得なかった
ものがいる。高品総務部長だ。
高品はちらっと俵社長を見た。俵は無表情だった。その時高品は俵の経営者としての
限界を悟った。
数十秒間の沈黙のあと、改めて高品の脳天に鉄槌が下されるようなヤリトリが始まった。
大場会長が追いうちをかけるかのように、重大案件について話を始めたのだ。
「ところで話は変わるが、例の目黒工場移転問題の件だが、ここらで結論を出そうじゃ
ないか。明後日(あさって)の引退会見でぜひ発表したいしね。社長と私の引退の花道に
させてくれないか。」
この大場発言に高品部長は最初“今だ、俵副社長よ、会長をうまくこっちサイドつまり
大石建設案に取り込むのだ”と胸の中で念じた。ところがさきほどの退職慰労金問題の
結論で気勢をそがれてしまったのか俵は何か言いたそうにしながら、口が動かないという
状態に見えた。高品は焦った。自分が発言したかった。だが彼にその資格はない。
“俵さんよ。何もたもたしてるんだ”……高品の焦燥感が募る中で大場会長がおもむろに
口を開いた。
「目黒移転問題も仲々微妙な問題だ。とえあえず私の意見を聞いてほしい。この間、
原田専務からも質問されていたんでね。自分なりに考えをまとめたつもりだ。
山川銀行と大石建設の両案について収支上は両者ほぼ拮抗しているようだね。ただ仮に
どちらかが少し高いとしても我々の腹次第で拮抗(きっこう)させれば良い。つまり
経済計算はあまり意味がないと思う。やはり我々の腹、つまり政治決着が必要だろう。
そこで私はやはり山川グループの一員であるということを重要視したい。これから先の
新体制でもグループの支援は絶対不可欠だろう。え、俵副社長。」
「は、はい間違いなく……。」
俵は既に放心状態のようだ。書記役の高品はボールペンを投げ出したくなった。
そのような高品の悔しさを無視して大場が淡々と続けた。
「だから結論的に山川銀行の厚木案に決定したいと思う。ただしだ、大石建設もこれまで
誠意をもって我々に接触して来た。だから土地は厚木にするが、そこでの新工場建設の
ゼネコンは大石建設にしてはどうかな。もっとも山川建設も山川グループの一員だと
言って俺にもやらせろと言い張るかも知れないから、もし揉(も)めるようだったら
大石建設とのJ・あるいは裏J・を考えてやったらどうかね。俵副社長、君の意見を
忌憚なく言って下さい。」
「はい、あの、いや……」
もはや俵は大場の呪文にかかったようなものだった。
「そうか納得してもらえるか、それじゃその線で山川銀行と最後の詰めに入ってほしい。
いいな山銀は原田専務の担当だったな。」
「畏まりました。」
気負う風情もなく原田専務が素直に応じた。高品の最後の夢がはじけ飛んだ。
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |