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大場からの退職慰労金辞退と波江相談役の阿吽の呼吸、何もかも順調に運んできた
原田新社長に、その日の午後晴天の霹靂(へきれき)が落ちた。
浜野新総務部長がいかつい身体をゆるがせながら、社長室に飛び込んできた。二通の
手紙を持参している。手に取って読むまでもてく内容証明便だ、と解る。
忘れていた福岡の自殺事件が思わぬ形で復活したのだ。
差出人は二通とも弁護士滑川義彦とある。そして一通の依頼人は猿渡美佐、もう
一通は有賀俊一だ。その二人の名前に原田はすぐ思い当たった。福岡支店でリストラを
苦にして自殺した社員の女房と、有賀はそのときの支店長で、即刻首にした男だ。
請求の相手先は山川メタル株式会社と代表取締役社長原田康雄殿で、それに括弧して、
まるでダメ押しでもするかの様に前営業担当専務取締役と記されている。
読む前から想像していた通り、内容は猿渡夫人の方が不当な馘首が原因で自殺した
亭主に対する損害賠償金と慰謝料の請求で、その金額を合計三千万円としている。
一方有賀元支店長の訴状は、不当な解雇に伴う損害賠償の請求と社則上に決められて
いる退職金の特別割増分の請求額合計二千万円である。
おろおろしている浜野部長を促して、顧問弁護士の山本春雄をすぐ呼ぶように命じた。
山本弁護士が駆けつけるまで原田はしばし思いを巡らした。リストラを苦にしての
自殺、それを理由にした慰謝料の請求、あまり聞いたことのない事例である。そう
思いつつ、原田はこの訴状が有賀元支店長だけの発案ではない、誰か黒幕が背後にいる
はずだ、と直感的に感じ取っていた。
三十分後、やって来た山本弁護士の説明で原田はその想像が大半、的中していると
確信した。
「社長、これは裁判になれば絶対にうちが勝ちますよ。この滑川(なめりかわ)義彦
という弁護士、実は悪名高いと言ったら彼に失礼ですが、売名好きの男でしてね。
敗訴は覚悟で有名企業相手に打って出るネタを探し回っているらしいですよ。この
依頼人の猿渡さんと有賀さんですか、この二人がどれくらい金を持っているか解り
ませんが、敗訴覚悟ですから訴訟費用を随分吹っかけているはずです。恐らくこの
お二人では賄い切れないでしょう。つまりこの二人の裏に誰か黒幕がいるのではないで
しょうか。」
厄介なことになった。山本弁護士の話を聞きながら彼が言う黒幕の顔が何人か原田の
頭に去来した。俵文四郎、高品透、大井戸恒久、吉池市郎。まずはこの四人の恨み
骨髄に徹した顔々である。
ただ彼等もサラリーマンだ。それ程金を持っているとは考えられない。だとすれば
総会屋か業界紙の大物か。たった二通の内容証明便がその後の原田新体制をゆるがす
方向に発展するとはその際、原田自身それ程深刻には考えていなかった。
「裁判に持ち込むか、示談にするかは社長のご判断次第です。裁判に持ち込めば
さっき言った様に必ず勝訴します。解雇を苦にした自殺なんてその因果関係の立証は
難しいし、相手がどんな奇策を弄してきてもそういうは判例はまったくないし、
私が切り崩してごらんに入れます。また有賀支店長のケースだって不当解雇とは
言えません。
ただし相手を完全にねじ伏せるためには、こちらもいささか痛みを伴います。
つまり、こちらの手の内を殆ど明かさねばならないでしょう。滑川弁護士のこと
ですから、訴訟の過程でこの件とは全然関係のないことまで、山川メタルさんの
スキャンダルを色んな形であばきたててくる可能性があります。
示談に持ち込むとしたら、亡くなった人の奥さんにはお見舞金程度の慰謝料
でしょうね。また有賀元支店長に対しては退職金の特別割増分ですか。先方は
二人併せて五千万円なんてふっかけて来ていますが、まあ多くても全部で一千万円
も考えて頂ければ十分でしょう。
訴訟に持ち込んでも裁判所は和解を勧告するでしょうから、山川メタルさんに
とって、示談にしても裁判にしても金額的には同じということになります。
ですから事を穏便に済ませるとするならば、特にスキャンダルで波紋を生じない
うちに、弁護士としては示談をお勧めしますね」
山本弁護士の話は説得力もあり、自信もあるように聞こえた。年齢は四十三歳と
若いが、父親代々山川メタルの顧問弁護士を勤めて来た。父親は数年前に亡く
なったが、若先生の方がもっと切れるという専らの評価である。
原田としては当然穏便に済ませるに越したことはなかった。だが相手の黒幕が
誰なのか、承知しておきたいとも思った。もしその黒幕が得体の知れぬ総会屋や
業界紙だったら、さっさと降りて示談金を支払うべきだ。一千万円ぐらいで済むなら
安いことである。
だがもしその黒幕が首にしたあの四人組のうちの一人であるとすれば、ここで
完膚なきまでに叩き潰しておきたい。
「山本先生、なるべく穏便に済ませていただきたいが、我が社が卑屈になる必要は
ないと思います。筋を通しながら、妥協点を見つけるようにやって頂きたい。」
「社長、これは弁護士同士の戦争みたいなものです。社長のおっしゃるように
甘い顔を見せればつけ上って来ます。示談に持ち込むにしてもタイミングを見計らう
必要があります。私にお任せいただけますか。」
「勿論です。お金の事があればいつでもこの浜野に申しつけ下さい。」
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |