「霧の波紋」(34)                 白川零次著

第九章 利益供与

    (2)

 この内容証明便に遡(さかのぼ)ることおよそ三・月前の四月初め、山川メタル社内は
上を下への大騒ぎとなっていた。山川メタルの新役員人事
が、当時まだ専務であった
原田から新聞発表されたのだ。取締役会
にもかけず、大場会長以外には誰にも知らせない
うちの抜き打ち発
表だった。
 殆どの社員が、いや大井戸、吉池、高品の三人の取締役でさえ、その新聞記事で自らの
退任を初めて知らされたのである。

 出社した大井戸営業本部長はまともに部下達の顔を見ることさえ出来なかった。社員達も
気の毒がってか、彼には腫れ物に触るよう
にして近寄らない。
 屈辱感と孤独感と焦燥感と行き場のない気分で滅入っていた時、突然大井戸の外線が
鳴った。

「はい、大井戸ですが」
「おい新聞見たが、お前さんやめるのかい。」
「やあ滑(なめ)川さん、ちょっと話をしたいな。今夜どうだ。そうだな同窓会で使う
四谷の鮨屋でどうだい。」

「相当くたばってるらしいな。大井戸(いど)さん、よっしゃ話を聞いてやろうじゃ
ないか。」

 挨拶抜きの喋りで大井戸は電話の相手が、滑川義彦弁護士であることが一遍に解った。
同時にさっきからのいらいらが少し和らぐよ
うな気がした。
 二人は富山第一高校、東京の東亜大学法学部の同期生である。東亜大法学部は以前は
司法試験合格者全国一で鳴らしていた。二人共
お定まりのコースに従って、司法試験を
在学中受験したが、見事失
敗。大井戸は卒業後山川メタルに入社した。郷里富山県に
鉱山を所
有している、というたったそれだけの理由が入社の動機だった。
 一方滑川は卒業後浪人しながら、翌年司法試験に再挑戦し見事合格、爾来弁護士の道を
歩いている。

 あれからおよそ三十年、お互いナイスミドルの域に達したが、変わらぬ交遊を続けて
来た。
 
三十年前、山川メタルの公害紛争で滑川は青法協の中核的存在として、山川メタル
攻略の先鋒となった。同窓会などで、大井戸は
“お手やわらかに頼むよ”と何度か
滑川に話しかけた記憶がある。

 一九七〇年から七五年にかけて、日本列島は四大公害病を中心に公害紛争が吹き
荒れた。滑川達若手弁護士の働き場所がどこにでも
転がっていた。山川メタルを初め、
殆どの企業が地裁の第一次判決
をそのまま受け入れて控訴しない態度を固めたので、
昭和四十八年
頃には紛争も下火となって行く。
 弁護士の中には時代の動きを察知して、別の方向、というよりも新しい職場を求めて
左派から右派へ、すなわち今度は企業側の顧問
弁護士に転向する者が続出した。が、
滑川は頑(かたくな)に左派路線をこの齢
まで貫いて来ている。山川メタルの顧問
弁護士山本春雄が、滑川の
ことを“悪名高い”弁護士と評したが、寧ろ滑川は弱い
庶民に味方
する“純粋な”弁護士と言うべきかも知れない。
 とにかく大企業の取締役と“純粋な弁護士”というどちらかといえば敵対関係の
路線を歩んできた大井戸と滑川の二人だが、高校大
学を通しての竹馬の友だ。つうと
言えばかあである。虫眼鏡が必要
な程小さな新聞の役員人事記事の中に、山川メタルの
大井戸恒久退
任の記事を見つけて、滑川はすぐに山川メタル営業本部の大井戸を呼び
出したのだ。

「俺はな、滑川(なめ)さん、まだ誰からも首だと言われていないんだ。こんな事って
あるかい。いきなり新聞辞令リストラだよ。法律的に何
とかしてくれないかね。それに
新社長になった原田、俺は奴の腹心
だったんだぜ、色々社長になるための知恵も貸して
やった。とにか
く何か物申さなきゃ腹の虫が抑まらないよ。」
「さて、大井戸(いど)さん、お前さんのケースはまず無理だな、取締役だからね。
株主総会で追認されたらどうしょうもない。」

 滑川弁護士は痩せぎすで眼差しが鋭い。以前からインテリ然としたやくざの中堅幹部を
イメージする鋭い風貌だったが、三十年間の
左派路線の年輪がその鋭さをさらに増した
ようだ。

「それよりも大井戸(いど)さん、大分以前の地方新聞で、覚えているんだが、
リストラ苦にして自殺した社員がいたな、あれお宅の社員だろ
う。あれについて
何か知っている事はないか。」

「九州日々新聞のことだろう。さすが名弁護士、えらい処にまで目がついてるな。
実はあれはすべて俺が統括していた事件なんだよ。
福岡支店長にはリストラの人数を
俺が指示したし、支店長はそれに
従って指名解雇した。その中の一人があの自殺
社員だよ。自殺させ
たのは首切りのやり方が悪い、という理由つけて支店長を首切った
のも俺だ。」
「何だ、大井戸(いど)さんよ、それじゃ俺の攻撃相手はお前さんてことになるのか。」
「いや、その点は滑川(なめ)さん、お前さんなりに良く考えてくれ。あの事件実はね。
けち臭い総会屋に嗅ぎつけられて、まず会長の大場が
激怒した。恐らく来年の勲一等が
危なくなると思ったからだろう。
その大場の激怒に専務の原田がびびっちゃった。
福岡支店長の即日
切腹はその二人で決めたことだよ。今回のおれの退任も恐らくその時、
大場と原田との間で内密に決めていたんじゃないかな。」

「総会屋に嗅ぎつけられていたって言うのか、大井戸(いど)さん。こいつは少し
面白くなって来たな。俺の方もゴロつき情報誌が山川メタル
のスキャンダルを色々
掴んでいるのを知っている。そいつと合わせ
て山川メタルを揺さぶって見ないか。」
 噛み切れない程固い烏賊刺しをビールで流し込みながら、大井戸の目が輝いて来た。
原田専務に一矢報いるチャンスかも知れない。

「滑川(なめ)さん、俺どうすれば良いんだ。」
「まずこの自殺事件の二人、つまり亡くなった人の遺族と福岡支店長を説き伏せて
請求人に仕立てるんだ。最終段階では訴訟の原告に
なってもらうかも解らん。」
「やってみようぜ滑川(なめ)さん。二人共一時はこの俺自身を恨んでいた が恨みの
根元はもっと上の方にあることを最近解って来たようだ。
二人から二度ほど手紙を
もらったよ。未亡人からは、何とか会社は
慰謝料とか見舞金を出してくれないかと
言って来てるんだ。支店長
の方は“俺のは不当解雇だ。いや解雇は解雇でも良いから
退職金の
特別割増は当然もらえるはずだ”ってね。両方とも金のことばかりだがね。」
「いや金のことばかりがかえって良いんだよ。訴訟となればとにかく金を請求することに
つきるからね。大井戸(いど)さん、こついはきっと
いけるぜ。」
 今度は滑川の方が目を輝してきた。
「ただね滑川(なめ)さん。その二人から訴訟費用を取るのは無理だよ。一銭も
出ないね。滑川(なめ)さんボランティアでやってくれるか。」

「まあ最近は国選ばかりでボランティアみたいなものだからな。ただ慈善事業は
勘弁してくれないか。ざっくばらんに大井戸(いど)さん、お
前さんはいくらくらい
なら出せるか。」
「……滑川(なめ)さん、ざっくばらんにいくらぐらい用意すれば良いのかね。」
「そうだな、ずはり百万、俺の報酬は成功払いで構わん、裁判所の費用や手紙の
費用なんかでそれぐらい覚悟しておいてほしいんだけ
どね。」
「問題の二人には一切負担は掛けないんだな。」
「もちろんさ。もし山川メタルからいくらかでもふんだくれたらむしろ二人の懐は
潤(うるお)うわけだ。」

「解った、滑川(なめ)さん、二人の意見を聞いてみる。いや聞くというより絶対に
たきつけてみせる……俺はもう失うものはない。何も恐い
ものはないんだ。」
「大井戸(いど)さん、もう失うものは何もないか、いずれそのセリフ使わせて
もらうぜ。」


(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。