「霧の波紋」(35)                 白川零次著

第九章 利益供与

    (3)

 滑川弁護士と飲んで話しあってから数日後の四月の休日、大井戸は国分寺駅前の
ホテルの喫茶室で有賀俊一と待ち合わせた。

「あなたがたに金銭的迷惑は絶対にかけない。僕の学友の弁護士がはっきり約束
している。有賀君。どうかね。山川メタルに一矢報い
ようじゃないか。直接君に首を
言い渡したのは僕だが、命令したの
が原田康雄であることぐらい君も十分承知して
いるだろう。」

 国分寺駅前は工事ラッシュである。休日にもかかわらず大型マンションの杭打ちの
音がホテルの中まで響いて来る。

 二月初めに首を言い渡された元福岡支店長の有賀は夫婦そろって国分寺の
マイホームに戻って来た。今は失業保険でしのいでいるが、
そのうち自分の
マイホームで中学生を相手に学習塾を開くつもりで
いる。
 東大三年の息子、お茶の水女子大二年の娘、二人共、父親の塾経営に大賛成で
自分達も卒業までは講師として手伝うと言ってくれた。
いわば家族ぐるみの学習塾が
やがて開校になる。有賀の気持ちにも
ゆとりが出始めた頃合いだった。
「大井戸さん、やりましょう。確かに二月の首宣告はショックでしたよ。でも
自分なりに色んな方面から情報を取りましたし、態々(わざわざ)教
えてくれる人も
いました。大場と原田の決定であることは僕も十分
承知していますよ。」
 有賀はもはや元勤めていた山川メタルのカリスマ会長とそれに続く新社長の名前を
呼び捨てにしている。

「それにしても……」
 有賀は悔しさと申し訳なさがミックスされたような表情で続けた。
「自殺した猿渡君は本当に気の毒でした。とても内気というか口数の少い男で、影の
薄い感じの人でした。自殺した夜は、夕食をすま
せたあと自分の部屋に入って、
トイレに何回か行ったらしい。いつ
台所から刺身包丁を取ったのか、奥さんは
まったく気がつかなかっ
たけど、そのトイレに何回か入ったその時ではないかと
言っていま
す。“うおーっ”と部屋の中から猿渡君の声がしたので、皆で部屋
飛び込んだら、部屋の壁を背にして両手は包丁の柄を掴んだまま、
包丁の先が首の
後ろのほうから出ていたそうです。奥さんの話では
いわゆる“ためらい傷”は
なかったと医者が言ったそうです。覚悟
の自殺だったんですね。」
「そうか、有賀君。そういう気弱な猿渡さんには、むしろ転職先、つまり中国興業を
世話してやらなかった方が良かったのじゃないか
な。」
「さあそれは何とも。ただ山川メタル福岡支店の仕事自体、彼の内気な性格に合って
いなかったかも知れません。というのは彼は九州
工専の出身で本来技術屋なんです。
それが久留米工場の大リストラ
で福岡支店に回されて来た。山川メタルの営業
そのものが初めてだ
し、客商売は苦手だし苦労していました。そして今度の
リストラで、
中国興業という紙卸問屋の売り子にさせられるわけでしょう。商品
知識も何もないまったく初めて見る商品のね。

 本人は福岡に永住を覚悟して家を建て、お袋さんを久留米の実家から引き取って
いました。そのお袋さんがまだ七十ちょっとなんで
すけど、どうもアルツハイマー
らしくてね。奥さんから会社に“ま
たおばあちゃんがいなくなった”ってしょっ
ちゅう電話がかかって
ましたよ。」
 久留米市にある九州工専は、その周辺に事業所を持つ山川グループ各社が資金
拠出して設立した工業高校である。自殺した猿渡が入
社した昭和四十五年頃まで、
卒業生の受け入れは山川グループ各社
の希望採用数に応じて、就職担当教諭が員数
割り当てをしていた。
世は正に高度成長の最中、山川グループ各社間で卒業生を
奪い合う
こともしばしばだった。
 その頃はスポーツ教育も盛んで、九州工専は春の甲子園で優勝したこともある。
 自殺した猿渡は化学専攻だったので、出来れば山川化学工業に入社したかった
らしい。だが教師が彼に割り振ったのは山川メタルだ
った。教師の命令には
逆らえぬ。

 山川メタル久留米工場での仕事は溶鉱炉作業だった。炉前温度は冬でも摂氏
六十度、夏には百度を超える。作業衣のまま水槽に飛び
込み、塩を口一ぱいに
ほおばって作業にかかるが、十分もすればず
ぶ濡れの作業衣がからからに乾いて
しまう。それを一日四時間ぶっ
通しでやらされた。
 九州工専での勉学など一切役に立つものはなかった。肉体労働者とまったく
変わるところはない。

 それでも猿渡は、社外の人と接触がないことにほっとしていた。彼は人づき
合いを最も苦手としていたからである。

 やがてその旧式溶鉱炉は時代遅れとなり、廃止する方針を会社が突然決めた。
猿渡外百五十人の従業員は殆どが廃止と同時に首を切
られた。山川メタルの真の
狙いはこの百五十人の人員整理にあった
のだ。福岡支店勤務になった猿渡は寧ろ
幸運な処遇だったといえよ
う。彼の真面目な作業態度が、当時の上司に好ましく
評価されたの
だ。
 だが支店の業務は当然接客業務が主体となる。最初猿渡は目の前の電話に
怯(おび)えた。“毎度お世話になります”がスムースに出て来る
まで一年以上
かかった。難しい価格交渉では客先の攻撃に一言も言
えないまま、一時間冷汗と
油汗を流して過ごすことも度々であった。

 そう言う精神的苦痛も重なって、会社のトイレで血を吐いたこともあった。
 その上、同居していた母親の様子が二年程前からおかしくなったのである。
最初は孫達の名前を忘れる程度だったが、食事したこと
を忘れるようになった。
そしてやがて街を徘徊して何度か警察から
呼び出しを食らうようになった。
アルツハイマー特有の症状をすべ
て示し出したのである。
「大井戸さん。猿渡君の自殺は正直なところ今度のリストラだけが原因ではない
かも知れない。だが広島に行け、と言われたことが直
接の引き金になったことは
間違いないと思います。」

 有賀俊一が真剣な顔で大井戸に言った。
「有賀君。良く解った。確かに滑川弁護士もリストラと自殺との因果関係証明は
とても難しいと言っている。訴訟に持ち込まれたら敗
けるだろうともね。だから
慰謝料とか損害賠償とかは期待しないで
ほしい。逆に訴訟費用について君や猿渡の
奥さんには絶対迷惑かけ
ないから。」
「大井戸さん、解ります。ぜひやりましょう。山川メタルのような企業が、いや
その企業の首脳陣が、自分の会社の社員の人格や人間
であることを無視して、
自分達はのうのうと酒盛りに酔い痴れてい
るなんて僕は絶対に許せない。非鉄
産業の非は非情産業の非ですよ。
学習塾の親父が何を言ってもどうにもならない
けど、あの大場が人
情会長なんてとんでもない。大井戸さん、とことん戦い
ましょうよ。
猿渡の奥さんは僕が説得します。」
 大型マンション工事の騒音が一段と大きくなった。四月の陽光がホテルの
ロビーまで差し込んでいる。


(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。