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山本弁護士事務所に滑川がぬうっと顔を出した。内容証明便を山川メタルに送り
つけてから十日程経っている。もはや梅雨明けか、七月の日射しはもう真夏を思わ
せる。西新橋界隈の弁護士達の溜り場と言われる薄暗い路地、そこの雑居ビルに
山本事務所はあった。
「五千万円とは、滑川先生、大きく出られましたね。」
一通りの挨拶が終わったあと、山本が先に切り込んだ。
「私は正当な要求だと考えていますが…。」
「先生、お金ですか、それともお名前ですか?」
十歳以上も若いが山本弁護士も負けてはいない。単刀直入に切り込んだ。
「その質問はそっくりそちらへお返ししましょう。山川メタルさんこそお金ですか、
それとも社会的体面ですか。山本さん。」
滑川弁護士の方は年の功、というよりも貫祿で圧倒する狙いから山本“先生”、
でなくさんづけで呼んだ。
しばらく空虚な沈黙が流れる。だが、決して重苦しい雰囲気ではない。お互い
イニシアティブをとるセリフを、頭の中に巡らしながらの沈黙なのである。
「滑川先生、大変失礼ですが、先生の弁護費用はどうなさるんですか。」
「はっはっは、この頃はそういう無躾(ぶしつけ)な質問を弁護士仲間からよく
聞かれますよ。とにかく国選専門弁護士で通って来ましたからね。ボランティアには
慣れっ子です。」
山本としては単純に失礼な質問をしたのではなかった。滑川側についている黒幕の
正体を探りたかったのだが、滑川もさるもの、山本の思惑通りの壺にははまらない。
「ところで山本さん。草加巌雄という総会屋というか、ゴロつき情報屋をご存知
ですね。」
「はあ?」
山本が呆(とぼ)けた、と感じた滑川は突っ込む絶好のチャンスだと思った。
「福岡の自殺事件の裏づけを取っているうち、その男にぶち当たったんですよ。
山川メタルは小銭を渡してだまらせたようですな。それって総会屋への利益供与に
なりませんか。」
「それは……。」
実は、その件について、山本弁護士は山川メタルから何も聞かされていなかった
のである。
「山本さん、福岡の自殺事件とは無関係だが、その草加という男の供述から仲々
面白い話も出て来ましてね。大場会長の一人娘さん、娘さんと言っても当時でさえ
三十路を過ぎてたのかな、ロンドンで怪死をされたそうですね。」
山本の顔色が青ざめて行く。
「いえ滑川先生、あれはお嬢さんの単なる自動車事故と聞いておりますが。」
「そうですか。それはそれでよろしいでしょう。ところで山川メタルの目黒工場
移転の話ですが、業界では大石建設から山川メタルの幹部に相当裏金がばら撒かれて
いる、という専らの噂ですが、大場会長も一枚噛んではいませんか。」
「滑川先生、今度は我々と名誉毀損罪での訴訟をお望みでしょうか。」
態勢を挽回すべく山本弁護士がジョークめいた反撃に出た。だが声の響きは
どこか空虚に聞こえる。
「まあそれも良いでしょう。大石建設絡みの件はある大物経済誌が追っかけて
いるようですから、その点はそっちに任せることにしましょう。……ところで
山本さん。大場会長さんはもうご退任されましたが、退職慰労金が数億円と
言われていますね。社員を毎年何百人もリストラしながら、そしてその中から
自殺者まで出しながら自分は数億円を懐にポイですか。よく社員が騒ぎませんね。
それで勲章をもらって“一将功成りて万骨枯れる”か、山川メタルって恐ろしい
会社ですね。」
山本の顔色に血の気が戻った。気持ちにゆとりを持った感じである。不敵な笑み
さえ浮かべながら山本は答えた。
「その点も今回の争点とは全然無関係ですから、申し上げる必要はありませんが、
まあ参考までにお教えしましょう。つい二、三日前大場会長は退職慰労金を辞退
されました。」
「ほう、それは驚きました。誰が大場さんに辞退するよう説得したのか、いずれに
しても大場さんは勲章の方に重きを置かれたということでしょうな。勲一等が
数億円か……。いや山本さん、今日はお互い一勝一敗というところですな。
これからのおつき合いを楽しみにしていますよ。」
「こちらこそ、滑川先生のような高名な先生にご指導を頂くことは大変光栄に
存じます。」
山本弁護士の方も滑川が言ったように一勝一敗だと思った。しかし山本は
まだ若かった。大場会長の退職金辞退をここで滑川に明かすベきではなかった。
滑川陣営はなぜ大場が辞退したかを巡って、山川メタルのスキャンダルを詮索する
ことになるのである。
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |