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山本弁護士から滑川会談の結果を聞いた原田社長は大石建設問題にまで触れられて
やや動揺した。
大石建設問題については数・月前、地金日報社の佐藤社長をそそのかして極どい
記事を書かせた。あの記事が出た時の俵副社長と高品の慌てぶりは尋常ではなかった。
何かあることは間違いない。しかも大場会長が一枚噛んでいる気配も濃厚だ。
原田はある考えがふと頭に浮かんで、すかさず浜野総務部長を呼んだ。
「浜野さん、俵前副社長の方はどうなっているんですか。」
「え? 例の退職慰労金のご辞退の話でしょうか。」
「そうです。会長、社長は既にご辞退なさったのに、俵さんだけががんばって
おられるのはどうしてかね。私としてはご三役揃ってご辞退という線で新聞発表
したいんですがね。」
「ごもっともですが社長、はっきり申し上げて俵前副社長は剣もほろろというか、
最近私が電話しても奥様しか電話に出て来られません。」
「そう、解った。僕からもお願いしてみましょう。」
浜野が部屋を出たあと、原田は俵前副社長ではなく、大場前会長宅に電話を入れた。
「おう、原田君どうですか。慣れましたか。」
大場の聞き慣れた鷹揚な声が受話器に流れた。原田はその瞬間小細工はすまい、
単刀直入に行こうと腹を決めた。
「会長、実は来週山川銀行と例の厚木の土地契約をします。それから来月中、つまり
八月中に大石建設とゼネコン契約をやります。ところで会長、ざっくばらんにお伺い
しますが、大石建設と会長の間に別に問題はありませんですね。」
しばらく沈黙の時間が流れた。大場の息遣いだけが受話器を通して聞こえて来る。
いや、もしかしたらそれは原田自身の呼吸の振動なのかも知れない。
「ああ、俵君から預かったものは全部返しておいたよ。最近いよいよ目が悪くなってな、
内容を良く調べて預かるべきだったんだか、あとで虫眼鏡で良くみたら“こいつは
いかん”と思って俵君に返したわけだ。だから大石建設との間に私は何もない。
心配せずに仕事を進めてくれ給え。」
「会長どうもありがとうございました。」
受話器を握っていた手の汗がすうっと引いてしまう感じを原田は味わった。気が楽に
なったところへ何とも微笑ましい大場の声が続いて、原田の気持ちを益々ほのぼのと
させた。
「ところで原田さん。涼しくなったら女房とイギリスに行こうかなんて話している
ところなんだ。娘の早苗の交通事故があった時、僕自身は仕事にかまけて事故現場に
行けなかったんでね。この際女房と一緒に現場に花でも供えようかと思ってね。」
「会長、それはすばらしい。会社として、いや私個人として色々お手伝いさせて
頂きますよ。何なりとお申しつけ下さい。」
「原田さん、どうもありがとう。家内もきっと喜ぶと思うよ。」
何ともほのぼのとした気持ちで電話を切った原田はすぐに気をとり直して再び
受話器をとり上げた。
「もしもし俵でございますが。」
聞き慣れた俵夫人のハスキーボイスだ。
「原田です。ごぶさたしております。俵さんはいらっしゃいますか。」
「おやまあ、はい。ちょっとお待ちくださいませ。」
静かな気配の中にテレビの音だろうか、原田にはかなり長い時間がかかったように
思えた。テレビらしい音が急に消えたかと思うと、これもまた聞き慣れた俵の低い声が
受話器に流れた。
「俵です。どうも」
「やあ一別以来ですね。こららは貧乏ひまなしでございます。ところで俵さん、
大場前会長がお戻しになられた大石建設からの預り物をどうなさいましたか。」
「……」
重い沈黙である。原田はここで一気に攻略する決断をして、いきなり核心をついた。
「まだ俵さんのお手許にあるわけですね。それはそれで宜しいでしょう。ただ俵さん、
会長も社長も退職慰労金を全額ご辞退なさいましたので、俵さんあなたもそうして
頂ければ私としては大変ありがたいのですが……。」
「……」
ここで返事を曖昧にしてはまずい。俵の確答を催促しょうとした時、
「解りました。お任せします。」
俵の口調は重々しかった。それだけ、この短い瞬間に俵としては苦渋の選択をした
ということだろう。
「私の気持ちを汲んで頂いてありがとうございました。それでは後刻総務部の方から
手続きを取らせていただきますので、宜しくお願い致します。」
電話を切って原田も身体全体冷汗のシャワーを浴びた気分だった。
しばらく呼吸を整えて原田は再び浜野総務部長を呼んだ。
「俵さん宅に退職慰労金辞退届けを送りなさい。あ、いやあなたがそれを持って
行って、目の前で判子を押してもらった方が良いでしょう。なるべく早くやって
下さい。」
「はい……」
社長室を出た浜野は、原田新社長の奥深い空恐ろしさを垣間見た気がして身が
すくんだ。
社長室に最初に呼ばれてから二度目に呼ばれるまで、ほんの三十分間ぐらいだった
ろうか。そのたった三十分間に原田新社長は難攻不落だった俵前副社長をいとも簡単に
ねじ伏せたのだ。
大場前会長は二十年間山川メタルに君臨した。間違いなくワンマンであったし、
カリスマであった。その間、原田専務は数多い取り巻き連中のワンノブゼムとしか
浜野の目には映っていなかった。
それが社長の椅子に座って一月足らず、原田新社長は大場会長とは違うタイプの
独裁者になろうとしている。大場が大親分的ワンマンだとすれば、原田はカミソリを
隠し持ったロベスピェール的恐怖政治を連想させるタイプだ。大場が家康だとすれば
原田は信長であるともいえる。
いずれにしても自分を山川メタル初めての高卒取締役に引き揚げでくれた事は、
浜野として原田新社長に感謝しなければならない。だがこれから先、自分はこの
原田社長に果たしてついて行けるだろうか。
少しでも社長の意に沿わない時、大場ならば怒鳴られて済むところだが、原田新社長の
場合はそのカミソリで闇夜にばっさりやられることになりはしないだろうか。四十年も
重役や上司の顔色ばかり窺って這い上がって来た浜野である。その長い経験から
育(はぐく)まれた勘で、原田新社長は自分にとってあるいは他の社員にとっても
最も恐ろしい存在になるのではないか。そういう無気味な予感に浜野は背筋に冷たい
ものを感じていた。
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |