「霧の波紋」(38)                 白川零次著

第十章 情報公開

    (1)

 

「社長、この雑誌の記事は事実なのですか。もしそうでないとしたら何故
反論しないのですか。」

「そうだ、そうだ。」
 八月最終の月曜日、エアコン完備の重役会議室だが、三十人近い出席者の
熱気で、史上最高と言われる外気温を超えるほどのむし暑
さだ。毎月一回、
最終月曜日は定例取締役会となってる。ただし取
締役だけの出席ではない。
各取締役が管轄する事業部門の部長、場
合によっては課長も出席させるのが
恒例だ。

 この八月の定例取締役会で、雑誌に出た社内暴露記事を手で示しながら原田
社長に詰問をしたのは若手部長の一人だった。“そうだ
そうだ”と相槌を
打ったのも部課長連中である。

 浜野総務部長は大場前会長時代と取締役会の雰囲気が一変してしまったな、
と感じていた。前会長出席の取締役会でこのような過激
発言はついぞ聞かれ
なかった。

「その記事については今、浜野部長に記事の出どころやどういう意図があるのか
調べてもらっているので、その結果を見て“財経往来
社”に対する対策を考え
たいと思います。」

 原田社長は悠然とした態度で答えた。これ以上余計な質問は受けつけない
という姿勢だ。だが部課長連中の勢いは止まらない。

「この記事の二個所の部分は我が社の名誉にとって極めて重大なことでは
ありませんか。

 一つは目黒工場移転に関して、大場前会長以下幹部連中が大石建設から
多額のリベートを受け取っているという事。そしてもう一ヶ
所はその事実を
原田新社長は承知していた。それどころかそれを脅
しの材料にしてライバルを
蹴落として社長の椅子を手に入れた。大
場会長が数億円の退職慰労金を辞退
したのも、そういう泥々とした
骨子があるからだ。……とありますが、これは
事実なのですか、ま
ったくのでたらめのですか。もしでたらめだとしたら当然
我が社の
名誉のために社長は即“財経往来社”に抗議して、訂正記事を出させる
べきではありませんか。」

「そうだ。そうだ。」
 出席者全員が息を呑んで成行きを見守るという雰囲気ではなかった。部課長
連中の発言を“もっとも”と感じながら、取締役連中は
自己保身のため貝の如く
押し黙っている。

「何せこう言っては悪いが、財経往来社はかなりラジカルな暴露専門の業界誌
ですから……この記事は実際でたらめですよ。でたらめ
に決まっている。
かと言って不用意に抗議したらまたどういうしっ
ぺ返しがあるか解らんで
しょう。だから慎重にも慎重を期して対応
したい。何せこの記事は先週末に
出たばかりですから十分調査をし
たいと思います。いいですね。浜野部長。」
 急に自分のほうに質問を振られて浜野は一瞬頭の中が真っ白になった。
「はい、その通りでございますが……」
 浜野の返事をそれまでと思った原田社長が、次の議題に移ろうとした時、
浜野の予期せぬ発言に議場は瞬間静まりかえった。

「財経往来社には抗議致します。致しますが……そのためには私も事情の
真相を承(うけたまわ)りませんと……そのう……どういう風に抗議してよ

のか、私としてもそのう……。」

 いつも原田社長の顔色を窺いながら話す浜野は、この時も原田の方に真剣な
顔を向けて喋った。色白の原田社長の顔がみるみる蒼白
く輝きだした。
少なくとも浜野の目にはそう見えた。だが実際には
原田の顔は真っ赤になって
いたのだ。そして浜野の発言を完全
に遮(さえぎ)って大声を出した。
「浜野君。君に雑誌社に抗議しろなんて一度も指示した覚えはない。調査だけを
命じたはずだ。抗議するか否かは私が決める。……今日
の取締役会はここで
閉会にします。」

 書類や資料を机の上に置きっぱなしにしたまま、原田社長は憤然として席を
立った。残された取締役や部課長の目が一斉に浜野部長
に注がれた。
「その通りだ。浜野部長、我々は部長の発言を支持します。我々は社内の情報に
ついて知る権利がある。」

 若手の課長が立ち上がって言った。言ったというよりは怒鳴ったと言うべきか。
「そうだ、そうだ。」
 声を上げて同調したのはやはり部課長連中だけだ。跡部専務以下取締役は、
この予想外の事態の展開にどう対応すべきか計りかねて
いた。殆どの取締役は
うつむき、一部は天井を見上げた。

 今まで一度も脚光を浴びたことがなかった浜野部長はまだ放心状態から
さめやらず“そうだそうだ”と囃(はや)し立てる部課長連中に笑顔
で答えよう
として、顔面神経痛のように顔をゆがめたまま立ちつく
していた。


(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

前のページに戻る

前回分を表示する

1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。