「霧の波紋」(39)                 白川零次著

第十章 情報公開

    (2)

 

 「社長、訴訟に有利不利かは別として、すべて山川メタルさんの社内の
実情を教えて頂かなければ、私としても闘う自信が持てませ
ん。滑川側は
相当情報を掴んでいます。この間お聞きした大石建設
の裏金問題はどう
なっているんですか。」

「山本先生、それは福岡の自殺とは関係ないでしょう。」
「という事は社長、やはり大石からのリベートというのは滑川先生が探りを
入れて来た通りなのですね。」

 原田は二週間前、山本弁護士とこんな会話を交わしたことを思い出していた。
 さきほど憤然と取締役会の席を蹴って原田はまっしぐらに社長室に戻って
来た。まさか財経往来社に大石建設の暴露記事が出るとは
予想だにしていな
かった。

 一方、滑川弁護士側の黒幕については、原田は自分なりにかっての腹心で
ある大井戸恒久であろうと絞り込んでいた。

 ただしもし大井戸だとすれば、福岡の自殺事件については事情を詳しく
知っているわけだが、大石建設に関してはどうだろう。何か
怪し気な動きが
あるという事ぐらいは勘の良い男だから気づいてい
ようが、具体的にどれ
ぐらいの金が動いたか、またそれが大場会長
までどの程度回っているかまで
察知しているとは考えられない。
 それぐらいの曖昧模糊とした憶測情報
だけで、ゴロつき雑誌社に
脅し記事を書かせる自信が大井戸にあるだろうか。
 実はその点について、原田は情勢を少し甘く見過ぎていたようだ。
 大井戸だけの情報でなく、滑川弁護士自身も何人か情報屋や業界誌を味方に
つけているという事実を、原田はもっと深く考えるべき
たったかも知れない。
 福岡自殺事件の慰謝料請求問題も、原田の観測には甘い処があったようだ。
山本弁護士に任せておけば、内々に少額の金ですぐ解決
する、と思っていた。
 処が、滑川弁護士側は自殺事件をまともにはぶっつけて来ずに、総会屋への
利益供与とか、今回の大石建設リベートの話や、大場会
長の娘の交通事故死
など周辺情報を小出しに出して来た。

 何故そのような迂回策を滑川弁護士は取ったのか。
 直接の切っ掛けは、山本弁護士が大場会長退職慰労金辞退の事実を滑川に
話したからである。四億円強という大金なのだ。いかに勲
章がほしいからと
言って、それだけで放棄する金額ではないはずで
ある。裏に何かある。裏に
何かあるからこそ大場はそれをカモフラ
ージュするために四億円強を断念
したに違いない、滑川はそう勘ぐ
ったのだ。正に的を射ている。山川メタルは
叩けばまだまだ埃がい
くらでも出て来る、と滑川側は探りを入念に入れ始めた
のだ。

 そしてもう一つ、ここに滑川と組んだ大井戸の意趣が見える。彼は最初から
勝訴、即ち山川メタルから金をふんだくるのが目的では
ないのだ。山川メタルの
スキャダルをすべて公(おおやけ)にして、原田社長に
対する意趣返しを狙った
のである。勘の鋭い男が適当に辻褄を合わ
せてスキャンダルの筋書きを作れば、
経済暴露専門の雑誌社は喜ん
で書くだろう。あるいは大井戸自身が金を出して
まで財経往来社に
書かせたのかも知れない。
 “大井戸を敵に回したのは失敗だったかな”色々と思いを巡らした原田は、
苦笑ともつかぬ深刻な表情で、一人社長室の窓から真夏
の夕陽を見つめた。
 乱世に必要だったカミソリ参謀を、天下を取ってしまったあと、却って
危険分子だとして切り捨てた。今、その大井戸が敵側のカミ
ソリ参謀に
回ったのだ。
“それにしても”、原田にとってもう一つ奇怪な事態が先程の
取締
役会で起きた。浜野総務部長の思いがけぬ発言である。
 山川メタル創立以来、初めてのノンキャリア取締役に浜野を引き立てて
やった。ただ最初から参謀とか懐刀というような力量を原田
は彼に一切期待
しなかった。自分の手足の如く動いてくれさえすれ
ば良いと思っただけだ。
 浜野はそういう猿回しの猿としか、自分を考えてくれない原田の真意を
見透して、あえてさっきのような反抗的態度に出たのか。取
締られ役に徹して
ほしい浜野に、突然取締役の自意識が芽生えたの
か。
 原田はふと八年前、自分自身が大場社長から取締役に指名された時の事を
思い出した。横に立っていた俵文四郎は緊張のあまり両足
をふるわせながら
硬直しているようだった。朴訥そのものだったが、
原田は何故かこの男が
自分の永遠のライバルになるのではないかと
直感した。そして八年後正しく
そうなった。

 俵は大場に気に入られ、また大場に心酔し切っていた。もし大場政権が
もう少し長期化したら今回の勝負は恐らく俵に負けただろう。
 そして最終段階で俵は大石建設のリベートの責任を大場にかぶらせず、
自分一人で背負い込んだ。大場の院政権力が山川メタル社内
で盛り返して
来るとしたら、俵との間でまた再逆転があるかも知れ
ない。何とかしなければ
……改めて原田は今回の事件の奥深さを思
い知らされる気がした。


(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。