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初秋の爽やかな風が吹く九月中旬の朝、原田社長はいつもの時間に出社した。
明かるい日射しの中から赤絨毯の薄暗い広い廊下を歩き始めた時、鞄を抱えた
小倉秘書が遠慮勝ちそうに、一歩後ろから囁(ささやく)くように言った。
「大場会長の奥様から先程お電話がございまして、成田空港からとおっしゃって
ましたが、今からロンドンに行くからとのことでございました。」
「ふん」……“それだけか”と聞こうとして原田はちらっと後ろを振り返った。
並んで歩くと原田より上背がある。ハイヒールの高さを除いても百六十センチ
以上はある、と思われる小倉光子は原田の気持ちを察したかのように、うつむき
加減につけ加えた。
「大場会長さんから社長さんに、今朝の新聞は読んだと伝えてくれ、と奥様が
言われました。」
秘書の経験六年というキャリアからか、原田の気持ちを読むのも速いし的確だ。
二十七歳という若さに似合わないほど落ち着いた雰囲気を持っている。
「ああ、そうかね。わかった。君は心配しなくても良い」
“最後のセリフは余計だったかな”ちょっと苦笑しながら社長室に入ると、跡部
専務と浜野総務部長がデスクの前に立って待っていた。デスクの上に五つか六つの
新聞が拡げられている。
もう既に我が家で承知済の記事だ。今朝出かける時、原田夫人が珍しいことばで
原田を見送った。
「あなた無理なさらなくてもよいのよ。」
デスクの上に並べられた新聞の記事よりも、玄関先での妻の声が原田の頭の中を
大きく占めていた。結婚して何年になるかな、たった二、三秒のことだったが、
初めて夫婦であることを意識させてくれる妻の言葉だった。あれに対して自分は
何と返事したのだろう、僅か一時間前の出来事なのにさっぱり思い出せない。
それがまた夫婦というものかな……。真剣な表情で原田の指示を待っている二人の
重役を前にしながら、彼は一時間前の我が家の玄関先を思い出していた。
“不当解雇を苦にして自殺した社員の遺族
山川メタル曹ニ同社原田社長を提訴”
五大新聞どれも同工異曲の見出しである。掲載個所もすべて社会面のトップ
記事で揃っていた。
大石建設リベート問題を暴露した財経往来社の記事で、大騒動となった八月末の
取締役会から二週間あまりが経過していた。
この二週間、山川メタルとしてあるいは原田自身、まったく手を拱(こまね)いて
いたわけではない。あの暴露記事が出て以来、五大紙も含めて何人かの記者が
連日のようにくらいついて来た。
その都度、原田は浜野総務部長に対応するように命じた。八月末の社内取締役会
では過激発言をした浜野だったが、記者相手となるとさすがに彼の対応も慎重かつ
巧妙である。
“暴露記事に思い当たるふしはない。財経往来社には何度も抗議しているが明快な
回答をもらえない。訴えるかどうかは顧問弁護士と相談して決めたいと思って
いる。”
これがテープに吹き込んだような新聞記者用の浜野部長のコメントだ。
この間、山本弁護士も精力的に動いた。いや動かされたと言った方が正しい
だろう。滑川弁護士の攻勢が一層激しく厳しくなってきたからだ。
滑川側としては例の暴露記事に対して、山川メタルが積極的な動きを見せない
姿勢から考えて、いよいよ例の記事は事の真相に近いものと判断した。ここで
一挙に攻め込もうと“提訴するぞ”を武器にして、請求額五千万円の全額支払いを
山本弁護士に強く要請してきた。
山本弁護士もプロである。滑川が単なる脅しで“提訴”をちらつかせているか、
それとも本気かの判断には自信がある。
そして一週間前、滑川側が“本気”だと察知した山本弁護士は原田社長にその旨
伝えた。ところが原田の返事は、
「そうか、仕方ないですな。」
と気乗りのしないものだった。山本弁護士が何度も、
「訴えさせては何もかも社内の内幕を曝(さら)け出すことになりますが、社長、
それでも宜しいんですね。一千万円程度の示談で済ませるお気持ちはありませんか。
スキャンダルを一千万円ぽっちだとすれば安い買い物ではありませんか。」
と繰り返しても、原田社長の返事は変わらなかった。
山本弁護士も“これでは仕方ない”と考え、自らも訴訟の準備をしながら、滑川に
対して、
「山川メタルは訴訟を受けて立つ方針ですよ。滑川先生、裁判所でお会いしましょう。」
と告げ、あわせて、
「そうなれば滑川先生、そちらに勝ち目がないことは百もご承知でしょう。どうですか、
ここ等で適当な示談額をお示しになったら……。」
と誘いかけるのも忘れなかった。滑川弁護士はにやっと笑って、
「リストラ自殺訴訟、これが新聞やテレビで賑わってくれればそれだけで僕の目的は
達したようなもんだ。勝ち負けは問題ではない。それにあなた方……というより原田
社長はとっくにお察しの事と思うが、こちらには有力な参謀がいる。財経往来社の
暴露記事も、その参謀の話を、僕が知り合いの編集長につないだ結果ですよ。その
参謀が言うには“俺には失うものはもう何もない”ということです。」
こうして昨日、滑川弁護士は東京地裁に本件を正式提訴し、同時に記者会見をした。
原田社長はデスクの上の新聞記事にはもはや無関心のように、そばに立ちつくして
いる跡部専務と浜野総務部長に呟くように言った。
「小倉君の話だと大場夫妻は今朝ロンドンに立つらしい。娘さんの供養旅行とは仲々
ほほえましいじゃないか。」
そこへ山本弁護士が書類鞄を抱えてあたふたと飛び込んで来た。
「山本先生、いよいよ法廷の場で、先生の本番ということになりますね。宜しくお願い
しますよ。」
山本弁護士に話かける原田の声は軽やかだった。
「いえ、社長、私の力不足で滑川弁護士を抑え込み切れず、山川メタルさんの社会的
信用も失墜させることになって、誠に申し訳ありません。」
「いや先生、その事ですがね。私はもうとっくに腹を決めていますよ。今先生の
言われた会社の信用ってやつですがね。うまく言えないが、私が今まで考えていた
会社の信用とは本当の意味での会社の信用ではなかったんですな。」
「え? 社長、と言われますと」
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |