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驚きのあまり、眼球が飛び出しそうな山本弁護士の合いの手に対して、原田の
口調は益々滑らかに軽快になってきた。
「私が考えていた信用とはね、会社のための信用ではなくて、実は大場前会長の
名誉を守るための信用だったんですね。彼に勲章をさし上げるための信用という
べきかな。もっとも彼に勲章を差し上げれば、私自身の社会的評価も上がる、と
勘違いしておったことも間違いないがね」
「社長!」
同席している跡部専務と浜野総務部長が同時に発言した。いや発言というより
叫び声を上げたといった方が良い。予想もしなかった原田のことばに二人の重役は
“社長”と叫んだあとは驚きと感動で絶句した。「山本先生、先生は最初、
法律的に裁判で争うなら絶対にこちらが勝つと言われた。確かに素人の私だって、
リストラと自殺に相当因果関係はないという根拠ぐらい想像がつきますよ。ただし
こちらが勝つためにはこちらの手の内はすべてあからさまになる、いや、明らかに
しないと勝てないとも先生はおっしゃられた……。」
原田は自分の考えを確かめるように、一息ついて再び言葉をつないだ。
「ですからすべて明らかにしましょう。大場前会長はもち論、この私自身も、
そして山川メタルとしても、社会的に傷つくかも知れない。大場さんとしては
勲章どころではなくなるでしょう。でも本当に会社のためを考えるならば、
今この時点で会社の膿(うみ)はすべて吐き出すべきだと私は決心した。いつまでも
膿をかかえて、臭い物にふたをしていては我が社の本当の再建は計れない。例の
財経往来社の暴露記事は大体が事実ですし、大場会長の指示で、ゆすって来た
総会屋に何がしか金を握らせたことも事実です。その事も含めて我々も裸になって
戦いますから、山本先生、心おきなく滑川とやり合って下さい。」
「社長、そこまでお覚悟がおありならば、私も全力をあげて戦わせて頂きます。
勿論、山川メタルさんに不利になるような事を、私の方からあえて公(おおやけ)に
する積もりはありません。」
山本弁護士のこの言葉の最後の部分は、浜野総務部長の突然の泣き声でかき
消された。
「社長、社長のお気持ちも理解せずに、この間の取締役会では大変失礼なことを……」
涙まじりの声をほとばせる浜野に対して、
「いや浜野さん、この間のあなたの発言で私は今日の決断が出来たんだと思い
ますよ。あの時あなたの発言を支持したのは若い部課長連中だった。重役連中は
右顧左眄(うこさべん)していたけどね。あとでゆっくり考えたんですよ。我が社には
まだ若いエネルギーが充満しているんだということをね。……我が社は不況産業
であることは間違いない。だけど銅箔など将来性のあるハイテク製品もあるんだ。
それより何より、うちには先輩方から受け継いで来た技術の蓄積がある。若い
エネルギーに加えて技術の集積だ。正に鬼に金棒じゃないですか。たとえ一時的に
膿を出して社会的信用を失墜しても、我が社の技術がそれぐらいの事でびくとも
するはずがないでしょうが、ねえ跡部専務」
今度は跡部専務が涙ぐんだ。俵前副社長に代わる技術の総帥として、こんなに
勇気を与えてくれる社長の言葉を聞くのは初めてだったのだ。
ともあれ原田社長にとってこれは一大決断である。下手をすると自分自身にも
追求の手が延びる恐れもある。例えば福岡の自殺事件、それを嗅ぎつけた総会屋
への現金支払いは原田自身も承知したことだ。商法違反の共同正犯に問われても
おかしくはない。
但し、原田は胸の奥で、過去のすべての膿を大場一人の罪に帰する策謀の
可能性を密かに思い巡らしていた。いざとなれば、自殺社員のリストラ指示も、
総会屋への利益供与も、ゼネコンのリベート授受もすべて大場の一存であった
ものと公表することにして。それは己の命運をも賭した危険な陰謀であった。
それからもう一つ、これだけの大決断を原田ににぶらせていた最大の黒幕は
山川コンツェルンの領袖、波江元老の枯淡な風貌であった。風貌は枯淡でも
眼光は鋭い。その鋭い眼光が“原田って奴はまだまだ尻が蒼いな”と言い出し
そうな気配を感じていたのだ。
だが今朝出がけの女房の言葉、
「あなた無理しなくてもいいのよ。」
の一言で、原田はすべて吹っ切れた思いだった。
折角波江相談役に取り入ったのだから、世間から大馬鹿者といわれそうな冒険を
侵さず、適当にマスコミをごまかし続けていれば、原田自身山川コンツェルンの
重鎮になれるかも知れない。勲章だってもらえるかも知れない。ところが今、
まったくそれに逆行する方向に進もうとしている。勲章どころか自分が犯罪人に
なる恐れさえあるのだ。
しかしそれでも良いではないか、“無理をしなくてもよい”とはこの自分の
決断を妻が密かに許してくれる言葉だったのだ。
今年ちょうど結婚三十年になる。今朝の彼女の一言が結婚三十年の結晶では
ないか。
社長室の窓から隣のビルを眺めながら、嗚咽の止まらない二人の重役とは別の
感動が胸にこみ上げて、原田もそっと瞼を手で拭った。 隣のビルの窓際に赤い
鉢植えが並んでいる。今夜は花でも買って帰るかな、ふと原田はそんなことを
考えていた。
原田社長以下、跡部専務、浜野部長の三人は自分達の決断に酔い痴れている
かのようだった。とにかく大場カリスマ体制の絶対維持という呪縛から解き
放たれた思いなのである。 ただ一人、山本弁護士だけはクールな気持を捨て
切れないでいた。原田社長が社内事情を何もかもさらけ出すと決断したことで、
リストラ自殺訴訟は山川メタル側の圧勝になるだろう。しかし、その訴訟の
過程で、滑川弁護士側から、山川メタルの様々な膿が公(おおやけ)にされる
ことは間違いない。
大場は数億円という退職慰労金を辞退してまで、叙勲に執着した。だが勲章
どころではあるまい。後ろに手が回る可能性大である。指先一本で一万人の
従業員を思いのまま動かし、そのうち八千人をリストラしたワンマン会長の
両手に手錠がかけられた時、大場はどのような心境を味わうだろうか。依然
としてカリスマとしての威厳を保ち続けるか、それとも盛者必滅の無常感を
嘆くだろうか。 清水の舞台から飛び降りた自らの決断に酔いっ放しの原田等
三人を横目で見ながら、山本弁護士の頭をふとさめた思いが過(よぎ)った。
“山川メタルとの顧問契約もそろそろ引き時か”と。“この会社の行く末も
どうやら見えて来たようだ”と。
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |