「史劇に学ぶ」 白川零次著
第十一回 植民地二世
筆者自らが体験した史劇を紹介したい。
終戦間近い頃、私共家族は慶尚南道知事を勤める父と共に、韓国の
釜山(プーサン)で何不自由ない暮らしをしていた。3人兄弟にはいわゆる
オモニが1人づつ、別の仕事の係りもいたので、総勢10人近いお手伝いが
いたものと思われる。
当時9歳の私の係は”照さん”という、母と同年ぐらいの優しいおばさん
だった。韓国人なのになぜ日本名なのか、当時の私は知る由もなかった。
ある日、照さんと一緒にいた時、部屋に入って来た母がいきなり私の
ほっぺたを叩いた。その思いがけぬ痛みの衝撃はあざやかに記憶している。
しかし、なぜ叩かれたかその理由がはっきりしたのは、終戦後、直接母に
問いただした時だった。
「あんたは照さんと、朝鮮語でふざけあっていたのよ。お父さんから、
子供達には朝鮮語を話さないように、特に朝鮮人に対しては、なおのこと、
毅然として日本語だけを話すように、ときつく言われていたからね。」
明治43年(1910年)、日韓合併に前後して多くの日本人が朝鮮半島に
渡って行った。植民地支配者として赴任したものも、もちろんいたが、
大半は開拓民としての移民者であった。彼等には国内での窮乏生活に
絶え切れず、新天地で一族郎党を養う決断をしたのである。特に中国
地方の寒村では、Aさん一家はハワイへ、Bさんとこはブラジルに移住を
決めたそうだという噂話が日常会話になっていた。だから、私の祖父が、
うちは一族、朝鮮に行くよと挨拶回りしても、それほど驚かれなかったという。
私の祖父を含めて、往時の朝鮮移民達は決して、朝鮮領土を掠奪する
意識はなく、半島の人たちと共に汗を流して、家族を食わせて行けばよいと
考えた。まして韓国の人達を搾取するとか、強制的に使役するつもりは
まったくなかった。実際、ソウル郊外の荒地に落ちついた私の祖父はそれこそ
汗みどろで耕作に取りかかった。その事実は、当時10歳だった祖父の長男
…つまり私の父…が記憶していて、私達によく話して聞かせたものである。
だが、旧満州から中国大陸への野望あらわにした時の政府と軍部は、
植民地朝鮮への支配強化と同化政策を次々と押し進めた。
歴史の教科書では、「創氏改名」とか「国語(日本語)常用」とか、無味
乾燥な四字熟語を丸暗記させられた覚えがあるが、前述の照さん事件で、
私は身近にそれ等の歴史的愚考を実体験していたことになる。
植民地二世という呼び名は社会的に認知されたものではない。ハワイや
ブラジル移民達はまず”二世”が現地での通称と認知され、いまや四世・五世
の代になっている。とにかく朝鮮二世は、1910年から1945年(昭和20年)の
わずか36年間に朝鮮半島で現地誕生した私とほぼ同世代に限られるわけだ。
朝鮮からの引揚者総勢百万人前後から推算して、現在まで全員生存している
としても20万から30万人程度に過ぎないだろう。
(以下、次回に続く)
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