「史劇に学ぶ」 白川零次著
第十一回 植民地二世
(前回からの続き)
青雲の志いだいて渡鮮した祖父は、やがて異国の地に骨をうずめた。
10歳でわけもわからず半島につれて来られた私の父は、旧制高校と大学を
東京で卒業後帰鮮し、朝鮮総督府につとめた。ハワイに帰米二世という
ステータスがあったが、父は帰鮮二世ということになろうか。(さすれば
私自身は植民地二世ではなく三世というべきだが。)
朝鮮半島に憧れ、半島の人々と共に汗した祖父からすれば、不本意
だったかもしれないが、私の父はあきらかに朝鮮植民地政策のお先棒を
かついだことになる。わが息子、すなわち、私が韓国人と朝鮮語で話合うなど、
父にとっては言語道断であったろう。
平成2年、来日した韓国の盧泰愚(のていう)元大統領のスピーチの一節に、
私は胸に針をさされる思いであった。
「自分の国の仲間同士で、自分の国の言葉を話すと殴られる、この屈辱感を
日本のかたがたは理解していただけるでしょうか。」
痛みを受けた方は仲々忘れないが、痛みを与えた方はすぐ忘れるものの
ようである。照さん事件の時、母に叩かれた自分自身の痛みを忘れなかったが、
そのシーンを目撃した照さんの心の痛みはいかばかりであったか。
日韓合併とそれにつながる日中戦争について、我が国政治家や有識者の
間で様々な論争がなされたいる。数少ない植民地二世の立場から、自らの
体験を通して、そういうお偉い方々に次のたとえ話を提供しよう。
ある日、突然、韓国の警察官が日本の我が家にやってきて、
「おい白川、今からお前の名前は白川ではなく金だ。それから日本語を
喋ってはならぬ。たとえ日本人同士でも韓国語を話さなければ殴るぞ。」
と言われて、「ハイワカリマシタ」と片言の韓国語で畏(かしこ)まって答える。
そうすると相手は、
「そのかわり金(白川)よ、俺達はお前達(日本人)のために学校や病院も
作ってやるし、韓国の警察がお前達を守ってやる。精々お国(韓国)のために
忠誠を尽くせ。」
これは決してたとえ話ではない。逆の立場で日本が韓国に対して36年間、
強要した実話なのである。それだけではない。これ以上の愚行・蛮行があった。
従軍慰安婦、強制連行などなど。
昭和20年8月15日を期して、我が家の形勢は逆転した。オモニ達の変貌ぶりを、
私共は隔離された部屋から恐る恐る様子を窺ったものだ。
彼等は広い我が家の中を、大声の韓国語で話し合いながら、音を立てて
歩き回った。父は母に「彼等にはさからうな」と再三繰り返したという。
強弱逆転の歴史的瞬間において、民族的反動の恐ろしさを、垣間見たことも、
植民地二世の忘れ得ぬ一コマである。
私共植民地二世達は、我々の親の代が彼の地で営々と築き上げた財産を、
すべて投げ捨てて引揚者となリ、また一部は残留孤児となった。戦争と侵略が
いかに愚かなことか、植民地二世として改めて警醒(けいせい)したい。
(「植民地二世」は今回でおわりです。次回は、「酒は百薬の長か」をお送りします。)
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