「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第十二回 酒は百薬の長か


  

  「酒は百薬の長か」、左党にとってなんと響きがよい、ありがたい言葉
だろうか。ところがこの言葉の語論には、大変血なまぐさい歴史的背景が
あるのである。
  西暦の年が始まった今から2千年前、それぞれおよそ2百年続いた
前漢
(ぜんかん)と後漢(ごかん)の間に、わずか14年の命運であったが、
(しん)という国が興った。その初代かつ最後の皇帝となった”王もう”が、
財政政策の一環として、「酒は百薬の長」と言い出したのである。
  物語はいきなり泥々とした血統争いに始まる。”王もう”は自分の娘を、
前漢末期の幼い皇帝に嫁がせると、献酒に毒をもって皇帝を殺し、さらに
小さい2歳の幼君を立て、自らは後見役として仮皇帝となり、やがてその
幼君も廃して、自ら新の初代皇帝となった。
  流血の末の権力者ではあったが、財政的には善政をほどこし、権威を
保とうとする。当時、「民に七亡ありて一得なし、七死ありて一生なし」と
いわれるほど新の社会は窮乏していた。”王もう”は儒教の聖人といわれる
周公
(しゅうこう)を理想とし、「周礼(しゅうらい)」に基づく「五均六幹(ごきんろっかん)
制度を取り入れた。
  五均とは、五大都市に官を設け、商工業と物価の統制を司る制度、
また六幹とは、貨幣の鋳造、山林管理、河沼管理、塩と酒と鉄の政府
事業化である。規制緩和の逆、行政指導の強化策であり、これに加えて
アルコールと塩の公的管理とくれば、どこかの国が2千年経った今でも
そのまま踏襲している制度ではないか。
  とまれ、この財政政策を裏付ける根拠として、”王もう”は令書の冒頭に
次の如く述べて、塩、酒、鉄の政府事業化を正当化する根拠とした。
  「それ塩は食肴
(しょくこう)の将(しょう)、酒は百薬の長、嘉会(かかい)
(こう)、鉄は田農(でんのう)の本(もと)
  ところが、商人たちは役人らとつるんで、この制度を悪用し、賄賂は
日常茶飯事、利権を独占したため、人民の生活はますます貧窮化して
いった。これ等もまた、2千年後、どこかの国で繰り返されている。
  多くの農民や小商人は業
(なりわい)を失い、国土は枯れ果てた。
”王もう”に、天命を革めさせる動きは、まず西暦15年、勢いをましつつ
あった地方豪族と民衆による赤眉
(せきび)の乱として、大陸西北部に
暴動が勃発。
  それに続く2年後の「緑林
(りょくりん)の兵」は、のちに「水滸伝(すいこでん)
として広く世に知れ渡ることとなった。初期においては、”王もう”に対峙して
お尋ねものとなった王匡
(おうきょう)、馬武(ばぶ)等数名が興した群盗集団に
過ぎなかったが、勢力はたちまち7〜8千にふくれ、自ら「緑林の兵」と
名乗って、地主の倉や群県役所を襲撃、大陸南部の緑林山にたてこもる。
やがて2年後、5万人にまで勢力を拡大した緑林兵の動きは各地の叛乱の
誘い水となった。その中には、のちに後漢の光武
(こうぶ)帝となる劉秀(りゅうしゅう)
等が含まれる。これ等の”反王もう”軍団は一部合流し、一部離散して行くが、
その歴史の大きな流れの中で、  つけ後となった緑林の兵たちは、あるいは
栄え、あるいは滅びていった。ただ、ロビンフッドのシャーウィッドの森を連想
させる緑林の兵の物語は、「水滸伝」という、壮大かつ爽快な大絵巻となって
2千年を経た今日でも、世界の人々に親しまれているのである。

次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。