「神戸の本棚」                 植村達男著

第十三回 堀辰雄と竹中郁


  昭和七年12月23日、堀辰雄は詩を通じての友人竹中郁の詩集
『象牙海岸』出版記念会出席のため神戸を訪れた。昭和五年10月の
ひどい喀血、翌昭和6年4月の長野県富士見高原療養所入院(6月退院)
のあとで、昭和7年秋には定期的に発熱をみるなど堀辰雄の体調は
良くない。病駆をを押しての神戸行きは、フランス帰りの竹中郁への
友情と、当時ヨーロッパ航路の玄関であった神戸のエキゾチズムに
ひたりたい気持ちから敢行したものであろう。
  神戸を訪れた翌年、堀辰雄は「新潮」誌に神戸での体験をちりばめた
作品「旅の絵」を発表した。この作品には「竹中郁に」という献題が
付されている。ただし、どういうわけか新潮文庫『燃ゆる頬・聖家族』に
収められた「旅の絵」では、献題が削除されている。このことについて
私は大いに「疑問」を持っている。

    小さなトランクひとつ持たない風変わりな旅行者の一種独特な旅愁。
   ー私はさっぱり様子のわからない神戸駅に下りると、東京では
   見かけたことのない真っ白なタクシイを呼び止め、気軽に運賃を
   かけ合い、そこからそうしつけている者のように、元町通りの方へ
   それを走らせた。もっとも通行人を罵る運転手の聞きなれない
   アクセントは私をちょっとばかり気づまりにさせたが。……

  堀辰雄は元町通りの喫茶店から竹中郁を電話で呼び出し、2人は
ホテルさがしに薄暗い神戸の町を歩きまわる。そして、ロシア人が経営
しているらしい、中山手通りのHOTEL ESSOYANに泊まることにする。
「赤ちゃけた小じんまりした建物」という、この堀辰雄ゆかりのホテルは、
戦前から神戸の異人館を描きつづけた小松益喜画伯の画集にもはいって
いないという。多分、芸術家の創作意欲をそそるような建物ではなかった
のであろう。
  堀辰雄は神戸で色々なものを見た。
  ホテルの部屋の衣装戸棚にあった薄っぺらなハイネの詩集、海岸通りの
しゃれたフランス料理店ヴェルネ・クラブ、フランス水兵の帽子の上の
ポンポン・ルウジュ、海岸通りの薬屋で見つけて購入した海豚叢書の
『プルウスト』、ドイツ菓子店ユーハイムでクリスマスの買物をする外人客たち。
……神戸へ着いた翌日、竹中郁の案内で堀辰雄は山手から下町へ、
そして欧州航路の出発点の波止場までと神戸の街を歩きまわる。そんな中で
堀辰雄は北野町界隈の異人屋敷に心惹かれた。

    大概の家の壁が草色に塗られ、それがほとんど一様に褪
(さ)
   かかっているそうしてどれもこれもお揃いの鎧扉が、或いはなかば
   開かれ、或いは閉ざされている。多くの庭園には、大粒な黄いろい
   果実を簇がらせた柑橘類や紅い花をつけた山茶花などが植わって
   いたが、それらが曇った空と、草色の鎧扉と、不思議によく調和していて、
   言いようもなく美しいのだ。……

  筑摩書房版『堀辰雄全集』第2巻、月報(昭和52年)にかかれた竹中郁の
小文によると、堀辰雄が見惚れて佇んだ異人屋敷はハンター邸
(現在は王子公園の近くに移築)であり、プルーストの本を買った店は英三番の
トムスンという「2階造りのそのまま絵になるような間口6間ぐらいの店であった」
という。この店の有様は、『小松益喜画文集』
(昭和56年・山口書店)にカラーで
収録されている。トムスンの経営者は小柄なイギリス人で、土着の神戸弁で
応対してくれたという。
  今年の3月「のじぎく文庫」の1冊として刊行された竹中郁『私のびっくり箱』

(昭和60年・神戸新聞出版センター)には、「堀辰雄の記念地」としてさらにくわしい
「旅の絵」の挿話が描かれている。堀辰雄が竹中宛電話したのは元町3丁目
浜側の藤屋という洋菓子店の喫茶室であった。堀辰雄が泊まったホテルの
跡地は「ふじい」
(生田神社裏消防署東……今はない)というレストランに
なっている。そして「うろ覚え」と断りながら、そのホテルのスケッチが、
エッセイに添えられている。

  私が、「旅の絵」を初めて読んだのは高校生の頃。まだ北野町にあった
ハンター邸を見に行ったのが大学生のとき。何れも、昭和30年代のことである。
ハンター邸は確か藤月荘という旅館になっていて、旅館廃業とともに取り
こわされる運命になっていた。それが壊されずにすみ、移築されることになり
安堵の胸をなで下したものである。以上のような体験から、私はいつの間にか
堀辰雄とハンター邸を結びつけ、堀辰雄が泊まったのがハンター邸(藤月荘)で
あると思い込んでいた。
  竹中郁の2つの文章で、私の思い込みが誤りであったことがわかった。
それにしても竹中郁の記憶の良いのには驚いた。一種の詩人の感性であろう。
  竹中郁は神戸で生まれ、神戸二中(兵庫高校)、関西学院文学部英文科
(この学校もかつては神戸にあった)を出た。彼は、中学同級の小磯良平と同行した
2年間のフランス留学期と一時の東京生活を除くと、78年近い生涯のほとんどを
神戸で過ごした。ともに明治37年(1904年)に生まれた堀辰雄と竹中郁。
この2人の友情が、堀辰雄の死の昭和28年以後、つい数年前の昭和57年3月7日、
竹中郁の死迄30年間も生きつづけていたのである。

  追記、竹中郁の仕事をまとめつつあった詩人足立巻一は、昭和60年8月14日
に亡くなった。いい文章を書く人であった。

(次回は「挿絵さがし−
『蓼喰ふ蟲』小出楢重を追い続ける」を予定しています)
この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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