「神戸の本棚」                 植村達男著

第十五回 『細雪』から「エマヌエル夫人」迄


  谷崎潤一郎『細雪』のはじめの部分に、神戸にあるMB化学工業会社
という会社の名がでてくる。この会社の社員である瀬越という男と、
蒔岡家の三女雪子との見合の話で、この長い物語は始まっている。
大阪外語のフランス語科を卒業し、パリに2年ぐらいいて、帰国してから
神戸のフランス系の会社MB化学工業に勤務する瀬越は、六甲の
文化住宅にすむ41歳の独身者である。これまで結婚しなかったのは、
「器量好み」であったからという。お見合の席で、同席した瀬越の旧友は
瀬越の人となりについて次のような注釈を行っている。

    「瀬越君は変ってゐるんですよ……大概な人が巴里へ行くと、
   帰るのが嫌になると申しますけども、瀬越君はすっかり巴里と云ふ
   所に幻滅を感じて、猛烈なるホームシックに罹って来たんですから」

  この部分を読むと、私は画家・小出楢重が書いた二つの文章を二重
写しにして思い出してしまう。一つは楢重がパリから妻重子にあてた手紙で
「パリの絵などは一向につまらないものが多い」(1921年9月27日付)とある。
もう一つは『めでたき風景』という随筆集に収録されている「ノスタルジイ」
という一文である。この中で楢重は自分は洋行するために船に乗りこむと
同時に帰郷病(ホームシック)にかかったと回想している。この二つの文の
うち前者がパリに対する「幻滅」で、後者が洋行中での「ホームシック」で
ある。
  谷崎の小説「蓼喰ふ蟲」が昭和3年から翌年にかけて大阪毎日新聞等に
連載中、小出楢重が挿絵を描いていた。また、小出楢重の死後出版された
『大切な雰囲気』(昭和11年)の序文を谷崎潤一郎が書いている等、この
2人の芸術家は親密な交友を結んでいた。したがって、小出楢重からの
話や文章を谷崎は『細雪』の中に巧みに織り込んだものと私は思っている。
なお、谷崎夫人の記憶によると、谷崎潤一郎は小出楢重の随筆を好み、
繰り返し読んでいたという。(昭和55年6月21日、早稲田大学における日本
近代文学会例会での同夫人の回想談)
  ところで、MB化学工業のモデルである帝国酸素(現テイサン)に1938年
(昭和13年)11月、もと国民新聞社に勤めていた一人の男が、翻訳係として
採用された。この人物は1943年、34歳のときに同社を退職する。そして、
それから訳10年後『酸素』という小説を「文学界」に連載する。この作品は
「第一部終」という形で昭和30年に新潮社から出版された。その後長らく、
この小説は古本でしか読めなかったものの、昭和54年に新潮文庫に収録
された。
  『酸素』の作者・大岡昇平が帝国酸素に勤務中に上司だったのが
鈴木ッ(たかし)営業部長で、小説の中ではフランス帰りの敏腕の営業部長・
瀬川として登場する。その小説の中の営業部長・瀬川の家は阪急西灘駅から
急な坂を5町ほど上がったところにある「洒落た洋風の家」と設定されている。
そして、この家には東京から来たままでお人形のような若妻頼子が、たった
一人で(夫婦の間には子どもがいない)夫の帰りを待っている。昭和50年12月
21日の夕刊フジ(サンケイ新聞社)によると、大岡昇平は鈴木氏に対して、
『酸素』に登場する敏腕営業部長・瀬川が間男されることについて、事前に
断っているとのことである。
  なお、鈴木ッ氏はパリ時代に下宿屋の娘(フランス人)と結婚している。
そのとき、もうけた子どもがタダス・スズキ(フランス在住)で、映画カメラマン
として現在フランスで活躍している。その息子(鈴木氏の孫)リシャ−ル・
スズキも同じく映画カメラマンっである。世界中で大ヒットしたあの「エマヌエル
夫人」は、リシャ−ル・スズキの撮影になるものであるという。

(次回は「『猫と庄造と二人のをんな』と摩耶・六甲」を予定しています)

この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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