「神戸の本棚」                 植村達男著

第十七回 高畠達四郎『白チューブの魅惑』から


  勤めの帰りに時々立ち寄る書店で、『白チューブの魅惑』という
新刊書を見つけた。著者は高畠達四郎、昭和58年1月・新潮社発行、
布張りの装幀の美しい本である。私はある期待を持ってこの本の
”目次”を眺めた。そして、内心「あるある」と思いながら立ち読み
するのも、もったいなく、”目次”を見ただけでこの本を買うことにした。
  高畠達四郎は昭和51年6月、81歳で亡くなった。慶応義塾理財科
(慶応義塾大学経済学部)中退というやや異色の経歴をもち、武蔵野
美術大学の教授をつとめたこともある洋画家である。晩年の谷崎
潤一郎と交友があり、谷崎は「老後の春」という小品(昭和32年9月・
「中央公論」誌掲載)に、高畠達四郎一家とともに熱海市伊豆山鳴沢の
自宅で花見をしたことを書き残している。
  「老後の春」によると、昭和32年4月7日の日曜日、熱海の桜が
いっせいに満開になり、谷崎は妻の勤めで人混みの錦ヶ浦へ出かけて
花見をするより、自宅で花見をすることにした。
  この日、谷崎はお客様として高畠達四郎一家を招いた。そして、
「縁台や筵を持ち出し、朝から密(ひそ)かに用意しておいた木の芽
田楽、筑前焚き、菜の胡麻よごし、卵の出し巻き等々でささやかな
酒盛りを始めたのが午後の二時ごろ」で、このお花見は5時ごろまで
続いた。高畠達四郎は「近来こんな悠長な花見をしたことはないですな」
と繰り返し嘆息をもらしたという。  谷崎は、この日の花見を次の
ように結んでいる。

     かうしてゐると春の一日が實に長い。いつまでたっても日が
   暮れそうもない。酔つぱらひや自動車の噪音が跡を絶って、この
   海と丘との天地を領するものは私たちばかり、ほかには鵯
(ひよどり)
   がときどき飛んで来て花の間に見え隠れするだけである。

  「老後の春」は小品ながら私の好きな作品である。特に、木の芽田楽
などを「朝から密かに用意しておいた」とか「この海と丘との天地を領する
ものは私たちばかり」といった言いまわしはいかにも谷崎らしい。
  ところで、高畠達四郎『白チューブの魅惑』の目次には次の2つの
エッセイが並んでいたのである。
  「谷崎潤一郎さん」
  「谷崎家の花見」
  「谷崎潤一郎さん」は昭和33年2月24日付の高畠達四郎の日記である。
この日、谷崎夫妻が高畠宅へ来訪、しばらく話をしてから谷崎夫妻、
渡辺夫人、恵美子さん、そして高畠夫妻の6名がつれだって「みさごずし」
というすし屋へ行く。渡辺夫人というのは谷崎の夫人松子の妹で、『細雪』の
雪子のモデルといわれる人である。この日、高畠達四郎は谷崎潤一郎と
絵画と文学について、語りあった。この日の高畠達四郎の日記は谷崎の
「自分の精進だけに突進して、他の道なんか糞くらえ」という言葉で締め
くくられている。この言葉もいかにも谷崎らしい激しいものである。
  次の「谷崎家の花見」には、高畠一家が谷崎家の花見に招かれた日の
ことが書かれている。

     桜と杉の樹蔭には、縁台がおかれ緋毛せんが敷かれている。庭に
   花ござが敷かれ、お赤飯、ゴボウ、鳥、こんにゃく等の煮しめ、玉子焼、
   山口県や広島のかまぼこ、キスのひらき、鮭の燻製等が並び、華やいだ
   雰囲気をかもし出している。酒は白雪の蔵出しの冷酒、ただたわいもなく
   お話をする。
    (中略)
     庭の南側は崖、桜花、それから海、そのまたむこうに海を越して
   錦ヶ浦、白石の釣り堀、網代の岬が見え、その上に春霞にかすむ天城が
   横たわっている。

  まさに谷崎の「老後の春」の世界そのままの情景である。ただし、この
日記の日付は昭和33年4月7日となっており、「老後の春」からちょうど丸一年を
経た日付に相当するのであるが……もしかして、誤記または誤植があって、
本当は谷崎潤一郎と高畠達四郎は同じ日のことを書いているのかもしれない。
この疑問は今後の研究(?)にゆだねておきたい。
  ところで、『白チューブの魅惑』には「六甲山の写生」という一文が掲載
されている。この文は昭和25年6月号の「美術手帖」誌に掲載されたものである。
高畠達四郎は2月の寒い日六甲山の写生を思い立ち下阪した。寒空の中で
写生をして風邪をひいてもいけないと思い、誰かの家の2階の窓から六甲山を
描こうと思っていた。ところが、大阪の詩人安西冬樹が紹介してくれた阪神
香櫨園の医師宅は留守で、しかも六甲山を描くには不適な家であった。そこで、
高畠達四郎一行の3人は思案のあげく六甲山を描くのに適した見ず知らずの
人の家に頼み、そこの2階から心ゆくまで六甲山を描いたという話である。絵を
描き終えてからどうやらその家は新婚家庭であったことに気付き、申しわけないと
思った。ところが、絵を完成するためにやむをえず翌日も再びその家を訪れ
六甲山を描いたというのである。この話は著者のおおらかな性格を物語ると
ともに、何となく「とぼけた」味があって面白い。
(次回は「谷崎潤一郎 住吉反高林旧宅」を予定しています)

この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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