「神戸の本棚」                 植村達男著

第十八回 谷崎潤一郎 住吉反高林旧宅


  この5月(昭和59年)、阪神魚崎駅北の住吉川西岸にある谷崎潤一郎
旧宅を訪れてみた。このあたりを歩くのは、初めてのことではない。私が
神戸に住んでいた昭和30年代に、何回かこのあたりを通ったことがある。
谷崎旧宅のすぐ南側に立っている住吉村と魚崎村の境を示す大きな石の
標識(明治14年建立)をみて、私がかつてこの地を訪れたことを確認した。
しかしながら、私が谷崎潤一郎が住吉川岸の反高林1876の203に住んで
いたことを知ったのは、私が神戸を離れて数年を経た昭和43年のことで
ある。大阪の創元社から出版された『関西名作の風土』に出ていたので
ある。
  この本の著者大谷晃一(朝日新聞記者)は、住吉川畔の谷崎旧宅を
評し、「どう見直しても、古ぼけた、貧相な2階家である。塀の石組が大き
すぎるのも、かえって佗しい。」という(150ページ)。しかしながら、谷崎旧宅を
見た私の第一印象は、阪神間に数多くあるしっとりとした和風の住宅で、
「さすがに戦前の住宅は品格がある。」というものである。戦前に建てられた
住宅が、和風であれ、洋風であれどんどん毀され、阪神間の景観が変わって
いくことを残念に思っている私である。谷崎宅のたたずまいは、妙になつかしく、
私は反高橋を渡って、住吉川東岸から、もう一度時間をかけて谷崎旧宅を
眺めた。この建物が、日本文学の記念碑として、住吉川畔に、いつまでも
建っていることを切望する。
  大正12年以来阪神間で転居を繰り返していた谷崎潤一郎は、昭和11年
11月に、この反高林の家に居を移した。そして、昭和18年11月に魚崎町魚崎
728ノ37(住吉川東岸)に転居するまで7年間の長きにわたって、この反高林の
家に住んでいる。この間、昭和16年10月には長編小説『細雪』の執筆に
かかっている。谷崎が自分の身辺の出来事を、巧みに小説の中に織り込んだ
『細雪』の蒔岡家は芦屋にあったと設定されているが、そのモデルとなった
「細雪の家」は芦屋ではなく住吉にあったのである。
  昨年、中央公論社から発行された谷崎松子(潤一郎夫人)著『湘竹居追想』
では、反高林の家についてまず『細雪』との関連を述べ、続いて次のような
環境描写を行っている(102ページ)

    阪神電車の魚崎の駅に近く、茅淳の海辺に出るにもそれ程時間の
   かからない比較的便利な場所にあった。
    川上には六甲の山脈が望まれ、家から二軒目の家の終わるところに
   反高橋が懸かってゐて、川底は低く、水は僅かに音もなく流れてゐた。

  また、本書には反高林の裏手には外人向けの貸家があり、谷崎が移り
住んだ当時は英国人が借りていたが、後にはドイツ人一家が借りて移って
きたことが記されている。この一家は『細雪』にシュトルツ一家として登場する。
  『湘竹居追想』と同じく昭和58年に、西宮市の曙文庫から発行された
市居義雄著『谷崎潤一郎の阪神時代』では、この反高林の家の叙述に
約40ページをさいている。そして、写真・地図・間取り図や「細雪」からの
引用などを駆使した詳細な解説を行っている。著者は阪神間で生まれ、
育った人で、現在不動産関係の仕事にたずさわっている。本書には谷崎が
住んだ13ヶ所の家が紹介されているが、著者の執拗な調査力には、驚嘆
するばかりである。
  今年(昭和59年)の5月、『谷崎潤一郎 資料と動向』という本が教育出版
センターから出版された。本書は250ページ余の大著で、今後の谷崎研究の
深化のために多大の貢献をするであろう書物である。著者は奈良の智弁学園
中高等学校教諭永栄啓伸で、この本の中で永栄啓伸は前述の『谷崎潤一郎の
阪神時代』について「岡本、魚崎、打出、反高林など阪神間の転居のあとを
驚くべき綿密さで調査したもの」(53ページ)と絶賛している。
(次回は「久々の谷崎伝『仮面の谷崎潤一郎』」を予定しています)

この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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