「神戸の本棚」                 植村達男著

第二十一回 歌謡曲『港が見える丘』と
            横浜の『港の見える丘公園』


  どこの書店にも置いてある交通公社のポケットガイドシリーズ『横浜』
(昭和52年・日本交通公社出版事業部)の中に、「港の見える丘公園」
について次のように説明している。

    ―歌謡曲「港の見える丘」で知られたところで、山手散策の一つの
  ポイントである。―

  この説明で少々気になるところがある。第一に歌謡曲のタイトルは
「港が見える丘」が正しい。この公園は昭和37年に完成したものであるが、
どういうわけか有名な歌謡曲とは一字ちがいの「港の見える丘公園」という
名称をつけている。
  第二に、この文章を読むと、「公園」が先にあって「歌謡曲」が後から
出来たかのような印象をうけることである。この文を書いた人は、歌謡曲
「港が見える丘」が昭和22年に平野愛子の歌でヒットした曲であることを
知っていたのであろうか?
  ちなみに、この曲の作詞・作曲は東辰三で「荒鷲の歌」「君待てども」
「涙の乾杯」等の作品を残し、昭和25年に他界している。

  団伊玖磨『好きな歌・嫌いな歌』(昭和52年・読売新聞社)は楽しい
随筆集である。この本の中に、「港が見える丘」についての短いエッセイが
集録されている。

    あなたと二人でき来た丘は
    港が見える丘
    色あせた桜ただひとつ
    淋しく咲いていた……

  この歌が街に流れていたころ、団伊玖磨は偶然にも横浜山手の丘の
上のフェリス女学院で音楽教師をしていた。当時の氏にとって「僅かの
給料を得るために空腹を抱えて、横浜元町入口の電停から、遥か丘の
上に聳える女学院迄の階段は辛いことだった。」そうである。
  このエッセイのしめくくりには、東辰三(本名山上松蔵)の子息山上
路夫氏が野口五郎の歌う「悲しみの終わるとき」等の作詞家として活躍
していることが出ている。

  レコードの側面から日本の歌謡曲史をまとめた森本敏克『音盤歌謡史』
(昭和50年・白川書院)では東辰三を紹介して、神戸高商を卒業、みずから
作詞・作曲をし、後にビクターの音楽部長をつとめた異色の人としている。
  なお、東辰三とほぼ同時期に神戸高商に在籍していた古林喜楽(元神戸
大学学長)によると、「港が見える丘」は横浜ではなく神戸であるという。当時、
神戸高商は上筒井(神戸市葺合区)にあり、ミナト神戸を望んでいたというのだ。
このことに関して毎日新聞神戸支局編『神戸大学』(昭和53年・毎日新聞社)の
中に、ビクターの関係者の「横浜だと思っていましたが、そういえば、どこにも
横浜とは言っていませんね」という言葉を載せ、最後に「真相は山上が天国へ
持って行ってしまった。」と結んでいる。

(次回は「港町の小説『ジェームス山の李蘭』」を予定しています)

この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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