「神戸の本棚」                 植村達男著

第二十三回 獅子文六『バナナ』の神戸


  昭和59年12月13日は、作家獅子文六の没後15年目に当った。これを
記念して横浜市山手町の神奈川近代文学館で獅子文六展が開催された。
会期は命日の12月13日から翌昭和60年1月15日までの約1ヶ月である。
私は最終日に同展示会を見に行ってきた。
  年表、写真、著書、手紙、原稿、新聞スクラップ等々が所狭しと並べ
られた、よくあるスタイルの作家の資料展であった。これら資料の中で、
獅子文六が生まれた明治26年当時の横浜の地図・写真や、生家の岩田
商店(絹物貿易商)がJAPAN DIRECTORYに掲載した英文広告が目を
ひいた。これらは獅子文六の文学のバックグラウンドを知るうえで有益な
資料である。この広告にはS.EWTA(IWATAではなく)と会社名が表示
されているのも面白い。また、演劇を学ぶためパリ滞在中に集めた舞台
写真、劇場チケット、舞台の彩色スケッチ等、本名岩田豊雄の名で新劇会
にも大きな足跡を残した獅子文六のもう一つの一面を知ることができた。
  『てんやわんや』(昭和23年)、『自由学校』(昭和25年)、『やっさもっさ』
(昭和27年)『娘と私』(昭和28年)、『大番』(昭和31年)等はタイトルのみ
知っているが、私は読んだことがない。獅子文六の作品で読んだのは
『バナナ』(昭和34年)、『七時間半』(昭和30年)、『可否道』(別名『可否と
恋愛』、昭和37年)ぐらいである。
  『バナナ』には神戸を描いた箇所がある。そこで、近所の世田谷区
梅ヶ丘図書館で『獅子文六全集・第七巻』を借り出して読み直してみた。
  台湾出身で東京・千駄ヶ谷に住む呉天童の一人息子呉龍馬が、この
小説の主人公である。大学生の龍馬が神戸で隆新公司という貿易商を
いとなんでいる叔父の呉天源を訪ねて行く「商人の家」(全集339ページ)、
「移情閣」(同347ページ)の章に神戸のことがでてくる。叔父の呉天源の
家は北野町にある。龍馬は年に一、二回は神戸に来ているので、新築の
市庁も、新聞会館も、国際会館も改めて見上げたりする必要はないとある。
まさに昭和30年代前半の神戸である。
  龍馬と叔父は、晩めしの相談をする。ハナワの洋食、オリエンタル・
ホテルと候補を出し、最終的にはキング・ザーム(原文のまま)へ行くこと
にする。キング・ザームの内装や雰囲気はダーツのセットやエリザベス
女王の肖像画に至るまで、かなり詳細に描写されている。元町の風月堂
らしい店も出てくる。一流の食通であった獅子文六は取材のために神戸へ
足を運び、これらの店の味を楽しんだにちがいない。
  龍馬が神戸へ来た翌日、ガール・フレンドの島村サキ子が龍馬を追って
東京からやってくる。龍馬はケーブルで摩耶か六甲へ登ろうと思ったが
時間がない。そこでサキ子を神戸の街へ連れて行くことにする。街路樹の
新芽も美しい海岸通を散歩したあと、龍馬とサキ子は呉天源に本格的な
中華料理をごちそうになる。熊の掌、フカヒレ、焼いた家鴨などメニューが
詳しく記されている。こんなところがいかにも獅子文六らしい。フロインドリーブ
やデリカテッセンなどの店名も出てくる。
  明治・大正期の在日中国人実業家呉錦堂が建てた舞子の移情閣
(いわゆる六角堂)のことも詳細に記されている。この移情閣の豪華さに
心を打たれた島村サキ子は、龍馬に対してバナナの輸入で大儲けをしようと
提案する。
  幼いころ父を亡くした岩田豊雄は『父の乳』(昭和40年)によると、慶応
義塾普通部在学中の明治38年ごろ、一人で神戸に来て、父の従兄弟の
神戸高商高校水島銕也宅に宿泊したことがある。少年岩田豊雄は明治
末期の神戸の有様をしかと目にしたわけである。
  獅子文六が生まれ育った横浜は、大正12年の関東大震災で居留地の
面影をほとんど失ってしまった。少年時代に訪れた神戸の街は、太平洋
戦争で被害にあったものの、戦後になっても横浜に比べるとまだ明治・
大正期の港町の雰囲気を残していた。獅子文六はそんな神戸を訪れて
古い横浜の姿を二重写しにし、また居留地時代の横浜で活躍し、明治35年
に50歳で死去した父を追想していたのかもしれない。

(次回は「松井敬子『いっぴきの蟻』のこと」を予定しています)

この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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