「神戸の本棚」                 植村達男著

第二十七回 六甲会館をめぐって


  筑摩書房の経営悪化が表面化する直前、「ちくまぶっくす」というシリーズの
刊行が始まった。
  『ある愛の旅路』は、このシリーズの第5冊目として、昭和53年5月20日に発行
された。この本は白系ロシア人女性ポーラ・ネニスキスの数奇な運命の物語を
南部ひろ(毎日新聞記者)が訳したものである。副題として「国籍を捨てた一女性の
記録」とある。
  ロシア革命に追われて、ポーラの両親は祖国を捨てた。ハルビン(旧満州国)で
銀行業を営む両親の下で少女時代を送り、18歳で上海在住の白系ロシア人ジョーと
結婚する。
  1940年7月末、新婚旅行を兼ねて神戸へくる。ところが、帰国の際満州国領事館
からパスポートの不備を指摘され、新婚旅行に同行した母が満州国への入国が
できなくなる。仕方なく神戸へとどまり八方手をつくすが、パスポートの件はうまく
いかない。
  そうこうするうち、日本は太平洋戦争へ突入、結局今日に至るまでポーラは
日本に住むことになる。
  戦時中、夫はドイツのゲシュタポと日本の憲兵の手で拉致され拷問を受ける。
夫は戦後まもなく病死してしまった。夫であるジョーが入院し亡くなった病院は、
神戸のインターナショナル病院である。このインターナショナル病院ではポーラと
ジョーの間にできた男の子ダニエルも生まれている。
  『ある愛の旅路』には、インターナショナル病院については、なんの説明も
出ていなかったが、この病院は六項登山口から少し北へ上がったところにあった。
このインターナショナル病院の建物は、昭和37年ごろ、六甲会館という名称に
変わり、学生寮や語学学校等として使用された。それから約15年を経た昭和52年
3月学生寮は閉寮となった。
  私は六項会館学生寮に昭和38年4月から1年間居住した。
  この寮は財団法人ザヴィエル育英会というカトリックの組織が運営しており、
館内にはスペイン、イタリア、フランス等からきた神父が住んでいた。寮の舎監は
ドミンゲス神父で、寮の規律(起床、門限等)は非常にやかましかった。門限の
時刻は忘れたが、確かなら女子大学の学生寮の門限より30分ぐらい早かった
はずである。
  私は必ずしも優良な寮生でなく、ドミンゲス神父にたびたび叱られた。
  私が六甲会館に居たのは、ちょうど大学4年生のときで、「植民地オースト
ラリアの生成と発展」という卒業論文は、ここで書いた。卒業論文に主として
使用する本の下訳に疲れると、「気分転換」と称して、六甲会館から、阪急六甲の
方へ散歩に行った。最初のころは、六甲登山口からやや南へ下った道の東側に
あった「エッフェル」という喫茶店へ入った。マヒナ・スターズのレコードがかかって
いて、ふと座席の脇の棚をみると東京タワーの模型が飾ってあり、代金を払い
ながら「エッフェルになぜ東京タワーがあるんや」などと心の中で思ったことが
あった。
  昭和38年の秋ごろ、「エッフェル」よりさらに南へ下った西側に「チョコレート」
というごく小さな喫茶店が開店した。ここは脱サラ風といった感じの若い夫婦が
経営していて、顔なじみになると奥のほうから「これはお隣から貰ったもの」などと
言ってお菓子をごちそうしてくれたことがたびたびあった。
  「エッフェル」も「チョコレート」も阪急六甲駅前の北側の道路が拡幅された
ころに姿を消してしまった。
  六甲会館で読んだ本のこともいろいろ思い出す。林芙美子『浮雲』『放浪記』、
志賀直哉『暗夜行路』などは印象深く、後に尾道へ何回か足を運ぶきっかけとも
なった。谷崎潤一郎の『蓼喰ふ蟲』『卍』は、同じ寮の廣瀬浩一郎に勧められて
読んだ。廣瀬は岡山県津山市の出身で、戦時中谷崎潤一郎が津山に疎開して
いたことから関心を持ったらしい。私が『蓼喰ふ蟲』を読んだことによって、いかに
大きな影響を受けたかは計り知れない。もし、この本を読んでいなければ、
サラリーマンの身で随筆集(『本のある風景』)を出すことなどなかったのでは
なかろうか。
  学生寮が閉鎖れてからも、六甲会館はベトナム難民の収容所として使用
されたこともあった。昭和52年6月20日付朝日新聞は、ベトナム難民の取材の
ため六甲会館へ行ったことが記事となっている。次は、その記事による六甲
会館の描写である。

    六甲山のふもとの斜面に広がる高級住宅街の中でも、木造三階建て、
   緑に囲まれた異人館風の建物は、ひときわ豪華にみえる。

  六甲付近の昔を知る人の話によると、この建物は戦前はホテルであった
という。
  数奇の運命をたどったヨーロッパの山小屋風の木造建物は寿命が来たのか、
最近撤去されてしまった。ここにありし日の六甲会館の写真を掲げ、当時を
しのびたい。

(次回は「二人のエスペラントを偲んで」を予定しています)

この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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