「神戸の本棚」                 植村達男著

第三十回 偕成社の偉人伝


  小学校1年生の娘にせがまれて、ヘレン・ケラーの伝記を買った。出版社の
名前を見ると偕成社とある。私が小学校時代を送った昭和20年代にたびたび
お眼にかかった出版社の名前である。そして、しばらくの間忘れていた出版社名
でもある。
  私は小学校時代、黄色いカバーのかかった偕成社の偉人伝を数多く読んだ。
アインシュタイン、ノーベル、フォード、ロックフェラー、ディーゼル、マゼラン、
パスツール、高峰譲吉等の人物を思い出す。偕成社の伝記は、もっと色々と
読んだはずなのであるが、これぐらいしか記憶にない。
  先に挙げた偉人伝はいずれも父が買ってくれたものである。特にノーベル、
フォードやロックフェラー、ディーゼル、高峰譲吉については父の意向が強く
働いているような記憶がある。私が子供のときに読んだ伝記が科学者、技術者、
ひいては大富豪という共通項をもっているのは、どうも偶然ではなさそうである。
  昭和30年の夏、私たち一家は父の大阪転勤で、東京世田谷区から神戸へ
住居を移した。ちょうどそのころのことである。日曜日の夕暮れ、国鉄住吉駅から
御影の自宅へ歩く道すがら、父は私に向かって「大人になったら、お金をたくさん
もうけろよ。たくさんもうけたら、少しお父さんに分けてくれるか?」といった趣旨の
ことを言ったことがある。中学生の息子に対して本気で、このような発言を父が
したとも思えない。しかしながら、この言葉と、父が小学生だった私に買い与えて
くれた数々の伝記本と奇妙な一致を見るのである。


  父が期待(?)をかけた息子も、もう40歳となった。父の期待に反して理科系の
大学へ進むことを拒否し、父と同じく商大系の大学(学部)へ進んだ”息子”は、
大発明や大富豪とはまったく縁がないありふれた会社員の生活を送っている。
また、70歳を過ぎた父も、自己の健康のためでもあるが、悠々自適の生活を
送ることなく、現役の会社員として毎朝定時に出勤している。
  今にして思うと、中堅サラリーマンとして人間関係等に苦労が多かった父は、
このような苦労が少ない(と思われている)理数系への道へ進む可能性を息子で
ある私に示してくれたのである。

(次回は「貴志康一のこと」を予定しています)

この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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