「神戸の本棚」           植村達男著

第四回 割れた魔法瓶ー甲陽学院と『天の夕顔』ー


  今年(昭和54年)7月、久し振りに大坂から神戸まで阪神電車に
乗った。甲子園駅に停車した際、ふと窓外に眼をやると、駅の南側に
あったはずの甲陽学院高校のコンクリート後者が影も形もなくなって
いるのに気がついた。
  この学校に関する私の記憶が二つばかりある。第一の記憶は私が
中学三年のときのものである。私はこの高校の入学試験を受けた。
昭和32年2月の寒い日であった。試験が始まる前、待合室のような
ところで、うっかりして魔法瓶を机の角に当てたため、中のガラスが
破損してしまい、せっかく持って来た熱いホウジ茶を飲むことができ
なかった。最近になって思うのだが、日本の魔法瓶製造技術はなんと
進んだのだろう。魔法瓶の一件は入学試験の結果を予測させるような
いやな出来事ではあったが、さいわいに入学試験に合格することが
できた。これは私が生まれて初めて経験した入学試験の合格である。
  二つ目の記憶は、大学1年の終わりごろ読んだ中河與一『天の夕顔』
に関するものである。この小説のちょうどまん中あたりに、たった
一回だけ甲陽中学(旧制)のことがでてくる。
  大学のフランス語のクラスで同級のTが、私にこの小説を貸して
くれた。彼の話によると『天の夕顔』(100ページ余りの薄い文庫本)
は、彼が信州を旅行中列車の座席の上に放置してあったのを拾った
ものだということである。その本は、まるで誰かに拾われて読まれる
ことを期待しているかのような姿で置いてあったとはTの言である。
  この小説の梗概を述べることは本稿の目的ではないので省略する。
しかし、この小説が中河與一の代表作であり、昭和13年に発表され、
戦中から戦後にかけて45万部も出た(昭和29年発行・新潮文庫版の
解説による)ことは挙げておかねばならない。

    わたしが初めてその人に逢ったのは、わたしがまだ京都の大学に
通っていたころ
  で、そのころ、わたしはあの人の姿を、それも後ろ姿などを時々
見てはまた見失って
  いたのです。…

  ここに引用したのは、ごく初めの部分である。日本語としては珍しく
人称代名詞が頻出する文章である。この文に出てくる「その人」または
「あの人」なる女性は、かつて神戸の熊内あたりに住んでいた。

    傾斜地の多い神戸の街をすぎて、布引の山の弓なりに彎曲して
いるあたり、ちょ
  うどその中に抱きこまれているような高みのところに出、それから
ガラス張りの洋風
  の家などのならんでいるあたりで、わたしは、やっとあの人のうちの
門札を見つけた
  のです。

  三宮駅から阪急六甲行のバスに乗り、布引をすぎてから元の市立
美術館へ行くあたりまでのどこかに「あの人」の家はあったに違いない。
  『天の夕顔』の「わたし」は、それから約8年後、東京に転居した
「あの人」の家を捜し出すことになる。その手掛かりが甲陽中学である。
すなわち、「あの人」の息子が甲陽中学に入学したという古い記憶から、
学校に問い合わせるなどして、住所をつきとめたのである。したがって、
この小説においてわずか一回だけでてくる甲陽中学は重要な意味を持つ。
  私は甲陽学院高校の入学試験には通っただけで、入学はしなかった。
しかしながら、以上述べた二つの記憶からか、甲子園駅を通るたびに、
そこに校舎があることを自然に確かめる習慣がついていたようである。
あの風格ある鉄筋コンクリートの校舎、L字形に曲がった歩道、藤棚…。
そんな写真を一枚ぐらい撮っておけばよかったと思っている。
(次回は「六甲山から街をみると」を予定しています)
この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日
第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。


 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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