「神戸の本棚」           植村達男著

第六回 中山伊知郎と野坂昭如


  昨年4月、詩人の金子光晴がたびたび立ち寄ったという吉祥寺の
古本屋で、『中山伊知郎全集第17集』(エッセイ集)を手にとってみた。
目次をみると「雲流るれば摩耶六甲を偲ぶべし」と題する随筆がある。
「野のしおり」誌第7号(昭和53年12月)以来、文中に必ず「六甲」という
二文字を入れた小文を書くことを秘かに心に決めていた私は早速
2800円を出してこの本を買った。昭和48年4月20日講談社発行の際の
定価は、奇しくも古書価と同じく2800円であった。
  「雲流るれば…」はわずか2ページの短いもので、昭和10年3月10日付の
神戸商大新聞に掲載されたものである。中山伊知郎は大正6年、三重県の
宇治山田中学を卒業、神戸高商に進んだ。この神戸高商は昭和4年に
東京工業大学、広島文理大学(現広島大学)等と同時期に大学に昇格、
神戸商業大学となった。中山は母校神戸高商の後身である神戸商業大学
(現神戸大学)の新聞に寄稿したわけである。「雲流るれば…」には中山
伊知郎が神戸で送った学生生活の一端が描かれている。

    神戸における三ヶ年の生活は極めて平穏なものであった。いわゆる
  善良なる学 生生活と文学趣味、それがすべてであった。(中略)
  六甲から有馬へ有馬から宝塚へ、そうして宝塚では雲井浪子を見て
  西宮へ帰る一日の行楽には忘れ難いものがある。

  雲井浪子とは、当時の著名な宝塚スターであろう。私はこの名前を
初めて知った。ところで、『中山伊知郎郎全集』第17巻には「読書の思い出」
として学校の図書館で馬場孤蝶訳の『トルストイ全集』を読んだこと、
「私の研究遍歴」として坂西由蔵先生の経済学の講義や原書購読等の
神戸の学生時代の回想記が散見される。
  中山伊知郎が学んだ神戸高商は、当時阪急電車の終点であった
上筒井にあった。ところが、中山が神戸を離れ東京商科大学(現一橋大学)
へ進んでから十余年後の昭和9年に、昇格後の神戸商業大学は六甲台へ
移転した。そして、移転後の校舎を利用して神戸市立神戸中学校(のちに
神戸市立神戸一中と名将を改める。現葦合高校)が開校となった。
昭和18年3月、神戸市立成徳国民学校(小学校)を卒業してこの神戸市立
一中へ入学したのが野坂昭如である。すなわち、二十余年をへだてて、
中山伊知郎と野坂昭如は同じ校舎で学んだということになる。
  野坂は昭和5年鎌倉の生まれであるが、生後間もなく神戸の会社員の
養子となり、張満谷姓で永手町や中郷町3丁目に住んだ。野坂の作品
『一九四五・夏・神戸』(昭和51年・中央公論社、のちに中公文庫)や最近の
『アドリブ自叙伝』(昭和55年・筑摩書房)は幼・少年期を過ごした
神戸時代の彼の体験をもとに書かれたものである。六甲付近に詳しい人は、
先にあげた野坂の作品をはじめ多くの作品に登場する人名・地名等の
固有名詞に親近感を覚えるにちがいない。成徳小学校(のち国民学校)の
金沢千代子訓導、同宇草正一先生、級友で母が助産婦をしていた伊藤忠勝、
隣家の丹波康太郎宅、八幡神社、省線六甲道駅、小泉製麻、石屋川、
寒天山道、一王山十善寺、御影宝盛館……。
  昭和20年6月5日の大空襲は中学3年の張満谷(野坂)から義父母と
家を奪った。生き残った昭如は妹(養女)恵子との生活を始める。そして、
恵子は終戦間もない8月22日1歳6ヶ月で栄養失調で死亡する。この
戦争体験を下敷きにして書いた「火垂るの墓」「アメリカひじき」が昭和43年
第58回の直木賞受賞作となる。野坂昭如が幼くして死んだ妹について
書いた箇所を読むと、黒メガネをかけてテレビや週刊誌で騒いだり、
イキがったりしている野坂とはまったく別の人間像が感じられる。神戸の
小中学校時代、あまり要領も良くなく、いじめられてばかりいた弱虫な少年が、
戦争体験を契機に、社会の波にもまれていくうちに強くなり、また強がりの
処世術を身につけていったのであろう。最近、私は野坂に対するイメージを
「イヤな奴」から徐々に修正しつつある。
(次回は「『愛書異聞』という本」を予定しています)
この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日
第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。


 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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