「神戸の本棚」                 植村達男著

第七回 『愛書異聞』という本


  昭和50年11月号に創刊号を出した雑誌「本の本」(ボナンザ社)は、
わずか16ヶ月で休刊となってしまった。この雑誌の創刊号から「愛書異聞」
というシリーズが掲載されていた。筆者は出版関係の仕事をしている
西岡武良である。西岡は昭和18年生まれであるから、「愛書異聞」を
執筆している当時は、まだ30歳代前半であったわけである。
  この「愛書異聞」シリーズを中心に他の雑誌等に書いたもの、さらに
4篇の書き下ろしを加え、このほど1冊の単行本にまとめられた。書名は
「本の本」連載のシリーズ名と同じく『愛書異聞』である。出版社は沖積舎、
発行は昭和56年4月18日である。私は伊丹三樹彦『神戸・長崎・欧羅巴』
(句集)や野呂邦暢/山口威一郎『夜の船』(詩画集)等を通じて、沖積舎
という出版社に関し若干の予備知識を持っていた。
  西岡武良の本に対する知識は豊富で本に対する思いいれは並々ならぬ
ものがある。例えば小高根二郎『詩人、その生涯と運命』(伊藤静雄の伝記)
を次のように描写している。

    この本は新潮社から昭和40年五月10日、A5判上製函入、本文
   970頁、写真12葉(セピアのアート紙に墨版で印刷)、きなりの麻風
   キャンパス地にちかい布装厚表紙のどっしりした大冊として刊行され
   ました。

  このような叙述が1ページにわたって続いている。『愛書異聞』の造本・
装幀もなかなか優れているものであるが、西岡ばりの描写で、この本を
紹介することは、残念ながら私にはちょっと無理である。
  『愛書異聞』には2ヶ所(21ページ以下、123ページ以下)にわたり西岡
武良が7歳のころまで住んでいた神戸、それも阪急六甲あたりの記憶が
書かれている。

    私は神戸に生まれ、7歳の頃まで神戸にいた。阪急電車の六甲口駅
   の近くにあった家は、もうない。あの頃の記憶には、春に線路沿いの
   よもぎを摘んだことや、変電所の周辺で砂遊びしたこと、六甲ガーデンの
   ぴかぴかしたフォークやスプーン、ゆったりした駅前から急勾配になる
   舗装された道路があり、正面の六甲山が子供の眼にはとても大きく
   映った。

  西岡武良にとって最も敬愛する作家は島尾敏雄である。そして、その
島尾が一時期阪急六甲口駅(現阪急六甲駅)から北へ上がった篠原北町に
住んでいたことに親しみを感じている。西岡自身も「愛書異聞」の最初の本
として島尾敏雄『幼年記』をとりあげ、この本が印刷(70冊限定非売品)された
当時(昭和18年)の島尾の住所が篠原北町1−1であることを記している。
  ところで、島尾敏雄は昭和22年9月神戸市立外事専門学校助教授の
職を得、世界史を担当していた。その後、同校は神戸市外国語大学となり、
島尾は史学概論、中国文化史を担当、昭和27年3月の辞職まで同校で歴史を
講じていた。このことは、意外と知られていない。私の友人で昭和39年同校
英米科卒の薬師正興氏も知らなかった。そこで、神戸市外国語大学最寄駅
である阪急六甲駅に店舗がある南天荘書店発行の「野のしおり」誌にこのことを
記録しておきたい。


(次回は「『六甲ガーデン』と『ガーデン六甲』」を予定しています)
この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

前のページへ戻る            

前のページへ戻る